くまもと自転車紀行

熊本市およびその周辺を走行した記録や装備・メンテなど、自転車にまつわることがらを中心としたブログです

「草枕の道」ライド

高校の同級生で、教職の傍ら夏目漱石の研究を続けてきたM女史は、その功績が認められ、現在、天水町にある「草枕交流館」の館長をしている。

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さらにM女史はわたしの家内の高校および大学の先輩にあたり、この度、その大学の同窓会の熊本支部会の主催で「草枕」の講演会をするというので聴きに行くことに。

講演会の場所はその「草枕交流館」で、家内を含む参加者の多くは貸切バスで行くのだけれど、折角なので、漱石が歩いた「草枕の道」を自転車で走って行くことにする。

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明治29年4月に第五高等学校教師として熊本入りした漱石は、翌30年の暮れには正月をゆっくり過ごそうと熊本で3番目の住まいになる大江村の家から小天温泉・前田家の別邸へ峠を二つ越えてやって来た。 この旅が、小説「草枕」のモデルとなったという。

まずはその3番目の住まいのあった場所へ行き、ここからスタート。

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実際、漱石がどのルートで市街地を抜けたかは記録がないので、たぶんこれだろうと思われる安政橋を渡り、

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お城を抜けて、段山から島崎へ。 ここからのルートは大体判っていて、現在は「草枕の道」として標柱があちこちに立っている。

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ただし、難所の鎌研(かまとぎ)坂の旧道は、自転車を担いで登るのもままならない険しさ。

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やがて県道1号線に合流すると句碑が建っている。

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「木瓜(ぼけ)咲くや漱石拙(せつ)を守るべく」 「拙を守る」とは、目先の利に走らず不器用でも愚直に生きることを意味する。これが、漱石の目指す生き方だったとのこと。 「草枕」の中にも「世間には拙を守るという人がある。この人が来世に生れ変るときっと木瓜(ぼけ)になる。余も木瓜になりたい」、とある。 そこから少し上ると鳥越峠の茶屋跡。

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その後も標柱に従って坂を下り、

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追分けを過ぎて

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再び上りが始まると

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風情のある石畳の道が始まる所に句碑。

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「家を出て師走(しわす)の雨に合羽哉(かっぱ)かな」 そして、このコースのハイライトとも言うべき石畳の道はロードバイクを押して上り、

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峠の茶屋跡(野出越え)へ。

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展望所の一角に「天草の後ろに寒き入り日かな」の句。

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時折り雄大な眺めを楽しみつつ、

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そこから坂を下って行くが、この道が路面が悪く、ロードバイクには不向き。

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やがて熊本市と玉名市天水町の境界。

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境界石には次のように刻まれている。  草枕道 これより邦古井里 漱石館まで半里  温泉の山や 蜜柑の山の 南側 漱石 その後も荒れた路面で、しかも急勾配の下りで久々に自転車を押して下っても恐ろしかった。

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やがて県道1号線に出たが、少し時間が余ったので、左折して、来年退位する天皇・皇后両陛下が昭和37年にお立ちになった南越展望所へ。

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ここの漱石の句碑は「降りやんで蜜柑(みかん)まだらに雪の船」。 ついでにナルシストの丘にも寄って時間を潰し、

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草枕の道に戻って、

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所縁の前田家の墓地を経由して

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「草枕交流館」へ。 丁度、同窓会の貸切バスがやって来て、ここでM女史の講演会。

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女史の漱石およびその作品に関する知識量はさすがに半端なく、小説でよく解らなかった箇所がよく理解できた。 その後、「志保田の隠居」のモデルでもある前田案山子(かがし)の墓を経由して

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温泉宿の「那古井館」で、

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参加者全員で昼食。

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ここの玄関にも漱石の句碑。

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(「温泉や水滑かに去年(こぞ)の垢(あか)」)

その後、物語の舞台となった前田家別邸や、

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(「かんてらや師走(しわす)の宿に寝つかれず」)

そして、民家の敷地内にあって普段は見ることのできない「鏡ケ池」を特別に見せてもらった。

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この後、他の参加者は野出峠にバスで移動。わたしは国道501号線を南に走って、河内から県道101号線に入り、追分でバスを待ち、朝上った石畳の道の入口まで誘導。石畳を満喫した参加者達が乗るバスを見送って、県道1号線を走って鳥越峠を越えて帰った。

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本日の走行距離:48.3㎞

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