早寝早起きしてカーボンロードバイクのライトを点けて、山鹿市菊鹿を目指して出発。
先日、西原村大切畑の塩井神社の冷たい湧水をのんだが、菊鹿にも塩井神社があるそうなので行ってみるのだ。
東バイパス、北バイパスを走り、須屋から日田街道に降り、北上して高速道路沿いの道を走っていると雲が掛かっている東の空が明るくなってきた。
雲海に浮かんでいるような金峰山を眺めながら北上し、
小野泉水公園を経由して小野川沿いを北上し合志川沿いの道を走る。
菊鹿方面の空は灰色の雲に覆われているが、天気は回復傾向そうなので中川橋を渡り、迫間川、上内田川沿いを走って、
県道18号線に入り、しばらく坂を上って傘〆(かさじめ)集落の「瘡(かさ)塩井神社」へ。
裏の崖からは小さめな滝の水が落ちている。
菊鹿の昔話によれば・・・
昔、山鹿小坂(現山鹿市小坂)に梶原正信という心の優しい子どもがいた。正信の父は戦で多くの家来と共に命を落とした。そのため正信は、侍ではなく仏の道を志した。小坂から山道を越えて 相良寺(現 菊鹿町相良)に通い学問に励み、東輪寺(現 菊鹿町矢谷)や郷の原 (現菊鹿町山内)の寺子屋などでも学んだりしていた。
ところが正信が十一歳の頃、 疱瘡(天然痘)に罹った。疱瘡は死ぬ人も多い恐ろしい病気で、高い熱が出て 顔や体中にたくさんの水ぶくれができた。母は、ここの「しゅえごの滝」の水が効くと聞き、その水を飲ませたり体を拭いたりして一生懸命看病した。その甲斐あってか、正信は一命をとりとめたが、顔や体にはひどい瘡蓋(かさぶた:疱瘡の痕)が残り、それまで 仲の良かった友達も気味悪がって除け者にし、いじめるようになった。正信は、 嘆き悲しむとともに、自分と同じように苦しんでいる人たちのことを思い、 自分の身をもってこの病気に罹った人を一人でも助けてあげたいと、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、・・・」と一心に祈って、滝に身を投じた。 里の人々は、正信を哀れんで祠を建てて祀ることにした。
元々ここには水の神様の「罔象女神(みつはのめかみ)」を祀る塩井神社があったので、「傘〆坊(かさじめぼう」と呼ばれるようになっていた正信の御霊も合祀することになった。以来この社は瘡を病む人に霊験ありと言われるようになり、全快のお礼に傘の絵馬が奉納されるようになり、この社を「瘡(かさ)塩井神社」・通称「傘〆さん」と呼ばれるようになり、この集落の名も「傘〆」となったと伝えられている。
道を戻って西へ坂を上り、久しぶりに首石トンネルを抜ける。
坂を下って県道197号線で坂を上り、峠を越えて正信が暮らしていた山鹿市小坂地区へ。
北側の岩下集落の小径に「かさ志めさん」の案内板があり、
民家の通用路的な細い道を進むと石段の先に「瘡塩井神社」を分霊した「かさ志めさん」が鎮座している。
聞くところによると、正信の死後、この集落の人の夢枕に立って「岩下に帰りたい」と言ったので、不憫に思って、分霊して祠を建てた、とのこと。
先程の本宮では藪蚊およびクロメマトイの大群の容赦ない攻撃で拝殿をよく見れなかったが、こちらの拝殿には傘の絵馬がいくつも掛けられている。
小坂の集落を抜けて「南の磨崖仏」をカメラに収め、
国道3号線を南下。
菊池川沿いの道に入り、
大道小学校の所で橋を渡り、千田川を渡って田舎道を走り、合志川沿いの道に入り、
しばらく朝来た道を戻って、立石からは坂を下って坪井川沿いの道を南下し、
三軒町通りを抜けて子飼橋からは白川沿いの道を走って帰った。
本日の走行距離:89.3㎞