くまもと自転車紀行

熊本市およびその周辺を走行した記録や装備・メンテなど、自転車にまつわることがらを中心としたブログです

山鹿の「生目神社」と「一ツ目神社」

朝、5時過ぎにクロモリロードバイクで出発し、山鹿にある「目」のつく神社を2社廻った。

まずは北バイパスを走り、須屋から高速沿いの道路を走って、小野泉水を経由して小野川、合志川沿いの道を走り、中富小学校から中川橋を渡り、「自転車くま」さんがレポートしていた小嶋集落の湧水を訪ね、

来民の商店街を抜けて、

「お化け屋敷」があった!

 

県道197号線を北上し、沿線の六地蔵に挨拶しながら

不動岩を仰ぎ見る萱場集落の

生目神社へ。

ここは、不動岩と彦岳の綱引きの際に、切れた大綱の端が母神の左目にあたり、その『生きた目』が畑に落ちたそうで、その生目を村人がここに祀ったとの伝説がある。

不動岩と同様の「さざれ石の磐となりて」と言う感じの岩場に建つその神社には

由緒書きなどないけど、その名前からすると、本場・日向の「生目神社」を勧進して建てたものかと思われる。

最近、飛蚊症が酷くなってきているのでしっかりとお参りして道を西へ進み、

三玉小学校のところから右に折れて北へ進み、「一ツ目」神社へ。

ここも、同じく、綱引き伝説の際に一つ目を失った母神を祀って「一ツ目神社」と呼ばれたとの伝承がある。

ところが、こちらもどうも後付けのようで、古来からこのあたりでは製鉄が盛んに行われていて、この神社は、鍛冶集団の神として知られる「天目一箇神(あめのまひとつのかみ)」を祭神としている。この「目一箇(まひとつ)」とは、片目の意味であり、鍛冶が鉄の色で温度を判定するのに片目をつぶったことから、とか、片目を失明する鍛冶の職業病があった、などの理由がある。こうして、鍛冶集団の神は「一目(ひとつめ)」とも呼ばれるようになった。

ちなみに、この神社の山門の右側の脇侍は片目に見えるのは、偶然か、故意か?

もうひとつ、忘れてはいけないのは、江戸時代にこの神社の宮司をしていたのが、帆足長秋(ちょうしゅう・ながあき)。

九州へ左遷された少納言・清原正高(清少納言の兄弟)の子孫とも伝えられる帆足家は豊後から肥後へと移り住んでいた。その一族の帆足長秋は、ここ一目神社と、近くの五郎丸集落の二宮神社の神職を務めていた。

国学の第一人者である伊勢松坂の本居宣長の門に学び、肥後の国に初めて国学を導入した。

このため、江戸末期、肥後藩では国学が隆盛して敬神党が結成され、明治初期の神風連の乱へと繋がって行く。

神風連ゆかりの桜山神社の墓碑

長秋の合計4度の伊勢松坂訪問の際の数多くの書写の中でも、本居宣長著の「古事記伝」の44巻の書写は非常に高く評価され、県の重要文化財に指定されている。

 

最後の伊勢松坂訪問の際には妻と、15歳の長女・京(みさと)を伴って

宣長を訪問し約80日を過ごした。この間、京も書写を手伝い、また、宣長と和歌を詠み合うなど、その才能を発揮し、帰郷後も将来を嘱望されたが、後年、長秋の厳格過ぎる性格から親子関係は崩れ、夫と共に故郷を離れた京は、31歳の若さでこの世を去った。

親子が暮らした五郎丸にある帆足家の墓地には親子の墓碑が立っている。

右が長秋の墓碑で中央の小さいのが京の墓碑

また、山鹿市鍋田にある山鹿市立博物館の入口では、父・長秋とともに旅立つ京の姿を見ることができる。

山鹿からは国道3号線を宮原まで南下し、ゆうかファミリーロードで植木温泉まで進み、小野泉水公園から先は坪井川沿い、白川沿いを走って帰った。

本日の走行距離:95.0㎞