「蒙古襲来絵詞」が17年振りに里帰りして、「くまもと文学歴史館」で展示会をやっていたので先日、見に行った。
そこに描かれていた竹崎季長(すえなが)の事を色々と調べて、その所縁の場所を探索しに数日前は宇城・甲佐を、今日は玉名・和水をロードバイクで廻って来た。 「文永の役」、「弘安の役」で活躍する竹崎季長を京の絵師に描かせた「蒙古襲来絵詞」は、弘安の役から12年後の永仁元年(1293年)、甲佐神社に奉納された。
その後、名和氏、大矢野氏を経て宮中に贈られ、現在は宮内庁が所蔵している。 甲佐神社では近年、住民らが蒙古襲来絵詞の主だった箇所を10枚の絵馬にして奉納したものを解説文付きで拝殿に掲示してある。
「くまもと文学歴史館」での展示は微に入り細に入り詳しく説明してあるが、全体像は判りにくい。ところが、ここ甲佐神社の展示は簡潔で判りやすい。
さて、文永の役の恩賞として海東の地頭となった竹崎季長は『蒙古襲来絵詞』の他にも菩提寺として塔福寺を建立したり、
海東阿蘇神社を建立したりした。
また所領の郷社に対する複数の置文や記録を残しており、当時を知る重要な手がかりとなっている。
例えば、海東の嫐迫(わなんざこ)集落にあった季長の屋敷や所領の一部は海東阿蘇神社の修理のために寄進された。
ところで、この竹崎季長の出身地については、長い間、海東から近い松橋町竹崎とされてきた。実際、竹崎地区にある興乗寺には「生誕地」の碑が建てられているし、
そこにある「竹崎城」は季長の居城とされてきた。
しかし「蒙古襲来絵詞」に記載された内容を詳細に検討した結果、他にも出身地の候補地が浮かび上がって来た。山口県下関市竹崎町と
玉名市天水町竹崎である。
中でも玉名市の竹崎は可能性として非常に髙いとのこと。
というのも、「蒙古襲来絵詞」では、季長の一門の武士として、「江田秀家」、「焼米(やいごめ)五郎」、「宮原三郎」の名前が挙げられているのだ。 伊倉の中心地「宮原」は玉名市竹崎から目と鼻の先。
伊倉は当時の菊池川の河口にあり、「江田秀家」の「江田」もそれほどの距離ではない。
さらに、もう少し上流に行くと「焼米五郎」の「焼米(やいごめ)」の集落。
そんな季長が晩年を過ごした北海東の平原(ひらばる)地区には季長を顕彰する「平原公園」が整備されている。
その一角の高台には季長の前進一途の心意気を表した、東郷元帥の書による「弓箭の道すゝむをもてしやうとす」と記した顕彰碑が建っている。
この言葉は季長が蒙古軍に先駆けする時に発した言葉で、「武士の道は、先陣をきることこそ最高の誉れ」の意。 また、季長を支えた重臣の藤井末成も顕彰してあり、
その子孫が公園一帯を現在でも所有しているとのこと。
その公園の片隅に季長はひっそりと眠っている。
11/29の走行距離:82.7km
12/2の走行距離:80.1㎞