熊本県内にある史跡の中で、一番多いのは明治10年に勃発した西南戦争の史跡であろう。
県内では天草を除くほぼ全域で戦闘が行われていて、官軍墓地の数だけでも20カ所を超える。 その内のひとつ、植木の「七本官軍墓地」では、
士官、下士、兵卒などの階級によって大きさの違う墓碑が数多く整然と建てられおり、その横には、白兵戦のために組織された警視官達の墓も建てられている。
そしてさらに離れた所に建てられた小さな墓碑が「軍夫」と呼ばれたもの達の墓である。
植木の南、「明徳官軍墓地」でも、
兵卒の小さな墓碑よりさらに小さな軍夫の墓が5つ建てられている。
「軍夫」とは官軍に従った人夫のことで、政府側の募集に応じて来た者や県内各地の行政の役職者に割り当てられて徴発された者など、その実数は一説によると12万3千人余と言われている。出身地は多い順から約4割が福岡県(多くは炭鉱夫)、約3割が熊本県(多くは農民)、約2割が山口県(多くは炭鉱夫)、その他1割が大分県(多くは農民)など。 その賃金は仕事の内容によって異なり、武器弾薬などの運搬作業や
飯盒炊爨や食品の調達、
兵営や陣地の構築や清掃
などの土木作業などでも通常の日雇い労働の数倍の賃金であった。前線での負傷兵の救出・搬送作業は命の危険が伴うため、
さらに高額の賃金であったが、それでも悲惨な作業のため、
耐えられずに逃げ出す軍夫が続出した。 このため、負傷兵の救出毎にボーナスを出す制度にしたところ、命の危険を顧みずに何度も救出に出動し、
多額の賃金を得て、土地を購入して家を新築する者もいたと伝えられている。 さて今朝は、カーボンロードバイクで北上し、山鹿市日置(へき)の金凝(かなこり)神社を訪れた。
製鉄の神様とも言われる神様を祀るこの神社の境内には天満宮があり、
菅原道真の石像を祀る祠が建っている。
この石の祠は軍夫として徴用された者が無事帰還した後に寄進したもので、
かつては違う所にあったものをここへ移したので「軍夫の碑」とも呼ばれていると、犬の散歩をしていたおじさんが教えてくれた。
軍夫は戦争の中では軍隊の基礎の部分の兵站(へいたん)を担う職業であり、歴史の表舞台に出ることが少ないが、西南戦争では軍夫への賃金が支出の中に占める割合が一番大きく、官軍勝利の要因のひとつと伝えられている。 本日の参考文献は熊本市立図書館から借りた二冊の本と、
以下のふたつのサイト。 「明治十年日記」(南阿蘇の道標で有名な甲斐有雄が軍夫として従軍した日記) 「西南戦争と彼岸土居の戦い」 そして本日の走行距離:54.4㎞