熊本県内の切支丹史跡は天草地方に集中しているが、その他の地域にも散見される。 これまでに菊池、山鹿、宇土、八代、に残る史跡を廻ったが、今日は熊本市内に残るものを観に花岡山周辺を廻る。 折角だから早起きして午前5時半頃クロモリロードバイクで出発し、午前6時頃には花岡山の頂上へ。
北からの強い風に流される阿蘇の噴煙の、
彼方に上がる太陽を眺める。
初秋らしい空気の中、坂を少し下って、中腹にある官軍墓地へ。
明治9年の神風連の変で命を落とした官軍兵士たちの墓石群の南側には江戸時代初期の、1636(寛永13)年、切支丹信仰のために斬首された小笠原玄也一家の墓がある。
玄也の父は、細川忠興の夫人ガラシャを介錯して自害した切支丹の小笠原少斎(しょうさい)秀清で、玄也の妻・みやの父は、小倉で殉教したディエゴ加賀山隼人であり、共に細川忠興の家臣であった。
忠興が隠居して、忠利が跡を継ぎ、1632(寛永9)年には肥後の領主となり小倉から熊本に移った折、
玄也も忠利の命により、熊本に移り、塩屋町に住んでいた。塩屋町は現在の新町二丁目周辺で、
町人の街を武家屋敷が囲むように配置されていた。
1635(寛永12)年に切支丹の検挙が全国一斉に行われることになり、玄也一家が訴人されることを恐れた忠利は、玄也に棄教を勧めたが、玄也は信仰を捨てることはなかった。 その後、報奨金目当てに玄也を長崎奉行に訴える者が現れ、忠利は玄也一家を守ることはできなくなった。 花岡山の東の麓にある禅定寺。
細川氏の家臣の多くが眠るこの寺で1636(寛永13)年1月30日、小笠原玄也一家は斬首され殉教した。
花岡山の中腹、自然石に「加賀山隼人正息女墓」と彫られた墓が発見されたのは、江戸時代末期の文政年間のことだった。
キリシタンとして葬られた、キリシタンの墓が公に残っている唯一のものである。 1915(大正4)年に、加賀山家の末裔の方々がその側らに石碑を建て、
1936(昭和11)年には、熊本市のカトリック手取教会の人たちによって、顕彰碑が建立された。碑の題字は徳富蘇峰、撰文は米原鶴太、書は菊池直人が担当した。
墓石からデッキの階段を下りた芝生の広場に1978(昭和53)年に熊本カトリック教会によって「花岡山殉教者記念碑」が建立され、毎年4月の日曜日には、この殉教碑の前で、「花岡山殉教祭」が行われているという。
ちなみに、キリスト教と言えば、この花岡山の頂上には「熊本バンド」の記念の地もあるけど、それはまた別の機会にレポートを・・・。
本日の走行距離:15㎞くらい