くまもと自転車紀行

熊本市およびその周辺を走行した記録や装備・メンテなど、自転車にまつわることがらを中心としたブログです

宇土の切支丹

朝の用事を済ませて、10時半過ぎから宇土を目指してクロモリロードバイクを走らせた。

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これまでに菊池山鹿の隠れ切支丹の史跡をレポートしたけど、宇土にも切支丹関係の史跡があるので探してみる。 宇土市街地に入る頃には昼飯時になったので、先ずはNicoで腹ごしらえ。

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(「灼熱のタギール・カレー」はスパイスたっぷりのチキンカレー)

いい感じになって、宇土市街地を抜けて宇土高校の西側にある城山へ。

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髙さ18mほどの台地の上の広場に小西行長の銅像が立っている。

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小西行長は堺の商人・小西隆佐の次男として京都で生まれた。21才の時、才知を気に入られ、秀吉の家臣となり、様々な功を上げる傍ら、26才の時に洗礼を受け、キリシタンに。 天正15年(1587年)の九州平定、翌年の肥後国衆一揆の討伐に功を上げ、宇土、益城、八代の三郡・二十万石を与えられ、キリシタン大名となった。

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ここまでは良かったが、秀吉の朝鮮出兵に際して、講和交渉の際に不手際を犯し秀吉の逆鱗に触れたり、加藤清正との確執を生じたりし、関ケ原の戦いでは石田三成に呼応し西軍の将として参戦し敗北。 市中引き回しの後、六条河原で斬首された。40才だった。

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(城山の案内板の写真)

それから400年、行長は「ゆるキャラ」となって蘇り、

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(「うとん行長しゃん」という名前らしい)

宇土の街並みに溶け込んでいる。

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(路線バスの停留所)

そんな宇土市街地の「宇土市運動公園」の近くの路傍にひっそりと立っている石碑。

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天草四郎は、小西行長の遺臣であった益田甚兵衛の子で、元は益田四郎時貞といい、現在の宇土市朝日町江部に住んでいた。幼くして曹洞禅宗の如来寺(現、宇土市岩古曽町)で学び、

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(如来寺の山門)

長崎へ頻繁に行き来するようになっていた。その後、切支丹となり、洗礼名はジェロニモ、後にフランシスコと改めた。天草・島原の乱の首領となったのは16才の時であり、

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(Wikipediaより)

江部に住んでいた四郎の母、姉妹は捕らえられ、原城に立て籠もっていた一揆軍に対して、降伏を促すための人質になった。 この際、一揆軍は四郎の母、姉妹を奪還するために、宇土半島の郡浦(こうのうら)への夜襲を計画した。

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(郡浦から不知火海を望む:過日撮影)

この時、約1000人の一揆軍に対し、その不穏な動きを察した郡浦側では庄屋、郡奉行、代官を始め総勢約50人。一揆軍の夜襲に備えて、農民に召集をかけ、多くのかがり火をたくなどして、多くの軍勢が構えているように見せかけた。

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(イメージです)

これが効を奏して一揆軍が夜襲を躊躇した次の日、熊本から大勢の援軍が郡浦に到着し、一揆軍は郡浦に上陸する機会を失ってしまった。

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(郡浦の船津漁港:過日撮影)

その後、郡浦は天草・島原の乱の際には幕府軍の兵站基地として重要な役割を果たした。 ふたりの切支丹に所縁の土地を巡った後は、ウキウキロードに入って、途中からは来た道を帰った。

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本日の走行距離:48.0㎞

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