くまもと自転車紀行

熊本市およびその周辺を走行した記録や装備・メンテなど、自転車にまつわることがらを中心としたブログです

山鹿の「隠れ切支丹」

少し寝坊したため午前7時過ぎにクロモリロードで出発し、山鹿を目指して北バイパスを走る。

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昨年の4月14日、熊本地震の前震があった日の昼間に、菊池市の隠れ切支丹の墓を見て廻った。 かつてキリスト教の宣教師は長崎平戸や天草から有明海を渡り、菊池川の終点である高瀬(玉名市)から船を乗り換え菊池まで進み、そこから陸路を最短コースの小国・湯布院を通り、当時菊池・山鹿を治めていたキリシタン大名の大友宗麟の待つ豊後府内(大分市)までを往復していたと云われている。 当然ながらその沿線では宣教師による布教活動も行なわれ、多くの「切支丹」を生んだものと思われる。 現在の山鹿市にも隠れ切支丹関係の史跡があるので、見て廻ろうと思っていたけど、すっかり忘れていたのだ。

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(菊池市「わいふ一番館」の展示資料より)

須屋を抜けて県道37号線を北上し、弁天の湯から左折して適当に走っていたら、

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また県道37号線に出てしまい、七城温泉を経由して菊池川沿いから中川橋を渡ってすぐ右折。

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すぐ左折した田圃の畦道から

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個人宅の敷地の一角のような所に小西行長の供養碑が建てられている。

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小西行長は泉州堺の豪商小西隆佐の子として生まれ、若くして秀吉に仕え、数々の戦功により宇土城24万石の城主となる。

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(宇土城址に立つ小西行長像)

関ヶ原の合戦に敗れて京都の六条河原で処刑される。この時、小西行長はキリスト教では自殺が禁じられているため、切腹はせず、斬首されたと言う。宇土城開城と共に家臣は行長の弟隼人の遺児の忠右衛門を伴い、密かにこの地に隠れ住み、姓も小材と改めた。この供養碑が立てられた小材家は小西一族の後裔と言われている。 下部より上部のの巾が広いこの供養塔は、

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舟の帆に似た等身大ほどの自然石に、「西岳院殿行長即得大居士 慶長五年十月五日」と刻まれ、台石には「アロエ」が刻まれている。

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「アロエ」はイエスの埋葬の時、棺の中に入れた薬草だとマタイの福音書に書いてあるとのこと。・・・と言う事は、アロエのお蔭でイエスは復活したわけですかな? さて、やぶ蚊が集まって来たので供養塔を後にして、隣接する「寺村」集落の中心部へ行くと、二つの小さなお堂が並んでいる。

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(ここにたどり着くには少々時間がかかった)

その右側のお堂には、如来像や観音像など4つが並んでいるが、

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左から二つ目の、ガラス板が張られた厨子の中の観音像は

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陶器製で、その後頭部には十字架が彫られた「マリア観音像」である。

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(「わいふ一番館」の展示資料より)

マリア観音とは、禁教下に潜伏信徒が仏教の観音像をマリアに見立てて祀ったものをいい、その多くは中国からの渡来品の嬰児を腰にのせた白磁の観音像である。 ここ寺村集落の観音像は現在「子育て観音」として拝まれているらしい。 さらに北へ進み、鹿本の「ひだまりセンター」の消防車などの駐車庫の裏の空き地へ。

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小柳の集落に合った切支丹墓のいくつかをここへ移してある。

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左端の1基は、高さ約70cm、地蔵ふうの像が刻まれていて、顔面には故意に破損した痕がある。

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  また一般的な地蔵よりやや肩が張り、両手の指で胸のあたりに輪をつくっている。キリスト教の表像における天国を意味する円形という見方もある。 次の墓石の

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右横面には、くっきりとラテン十字が刻まれている。

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3番目の墓は、笠の下に〇×の記号を彫っただけのもの。

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笠のマークを山、〇×マークを田と置き換えて、「サンタ」と読むという説もある。 右端の墓碑は、逆万字が刻まれていて、万字の先の折れた部分が極端に短いことから、十字が意図されているらしい。

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そこから西へ走り、大宮神社の裏の山鹿小学校に隣接するような墓地の一角に阿蘇品家の墓域がある。

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その左側に、十字架を刻んだ碑六基、裏側に八基の立側墓碑がある。どの墓も十字架が克明に刻まれている。・・・と解説文にあったものの、墓石表面の汚れがひどく、確認できなかった。

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史跡巡りを終わった頃から陽が出てきて暑くなってきたので、山鹿市街地の豊前街道で

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麹が入ったソフトクリームを食べて、

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菊池川沿いを走る。

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大道小学校のところで橋を渡り、千田川を渡って、畑の一本道を走り、いつものように合志川沿いから

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小野川沿いへと南下し、坪井川沿いを走って午前11時頃には自宅へ帰り着いた。

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本日の走行距離:71.0㎞

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なお、今回の史跡に関する説明文は、菊池市の「わいふ一番館」での展示資料から引用した。