くまもと自転車紀行

熊本市およびその周辺を走行した記録や装備・メンテなど、自転車にまつわることがらを中心としたブログです

八代の切支丹

朝の用事を済ませて、午前9時半頃、久しぶりのカーボンロードバイクで自宅を出発し、八代を目指す。

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めど町橋を渡り、国道266号線、県道313号線、312号線を走り、小川を抜けて、氷川の森口商店の

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アツアツの焼万十で栄養補給。

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旧・薩摩街道を走って八代に入り、JR八代駅の駅前にある「ミック」で

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カツカレーを堪能。

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その後、八代の切支丹関係の史跡などを廻った。 豊臣秀吉は1587年(天正15年)の九州征伐の際に八代を訪れ、南蛮交易の港であった「徳渕の津」の賑わいを眼にして八代の地勢上の重要性を見抜いた。

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そして翌年、この八代の領主に任命されたのが小西行長であった。

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行長は、豊臣政権内では舟奉行に任命され水軍を操った海のスペシャリストで、海外事情にも明るかった。 行長が当時の球磨川北岸に築いた麦島城は秀吉の威光を示す金箔瓦が輝き、八代海に張り出した構えは、すでに海外を見据えていた。

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キリシタンでもある行長は、赴任当初は表立った布教活動をしなかったが、1598年の秀吉の死後は布教活動を積極的に行い、1600年に行長が斬首されるまで、わずか2年ながら、八代ではキリスト教文化が花開いた。 市街地の金立院(こんりゅういん)に遺るカマボコ型のキリシタン墓碑にその一端を垣間見ることができる。

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ところが、行長の死後、後を継いだ加藤清正の統治からキリシタン受難の時代が始まった。 多くの信者が日蓮宗への改宗や他藩への逃亡を余儀なくされる中、この地に踏み止まって信仰を堅く守り抜いた者たちがいた。 行長の旧家臣2名とその家族4名、「慈悲役」と呼ばれた町方の信徒3名とその子2名、合計11名の信者は、行長が南蛮貿易の拠点に築いた麦島城の近くで処刑された。

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その刑場跡は「列福記念公園」として整備されている。

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八代で行われたキリシタンの処刑は、布教に来ていた宣教師たちに衝撃を与え、ローマに詳細な報告が伝わった。 八代の11名の殉教者たちはヨーロッパにおいては「信者の鑑」として広まり、イタリアでは、行長の家臣・竹田シモン五兵衛の妻・竹田アグネス加奈を主人公にした「アグネス」という題の歌劇が作られるほどであった。

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(「アグネス」と言われると、ついつい、こちらの方を・・・)

こうして「ヤツシロ」の名前は当時のヨーロッパではカトリック信者の間で広く知られるようになっていた。 時は移って1873(明治6)年、政府はキリシタン禁制を撤廃し、1889年にパリ外国宣教会のジャン・マリー・コール神父が八代に派遣された。

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コール神父はレオン・パジェスという東洋学者が書いた『日本切支丹宗門史』の愛読者で、ヨーロッパにも名前の伝わる八代にキリスト教を復活させるべきだろうと、1890年にコール神父がこの教会を建て、殉教者の痕跡を捜しつつ、カトリック再興に努めた。 コール神父が司祭を務めた本町1丁目の「八代カトリック教会」には

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11人の名前を刻んだ殉教者の碑が建っている。

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コール神父の布教により八代のカトリック信仰は復活したが、多くの貧しい病人や子供たちに心を痛めた神父は、その救護をシャルトル聖パウロ修道会に依頼した。 1900(明治33年)に、フランス人修道女スール・ウラリ・ドゥ・ラ・クロア=マリー・モルジュ(医師、修院長)とスール・アンジェル・ドュ・カルベール、日本人修道女スール・ジョセフ・小磯エイ(看護師)が八代の地を踏み傷病者の治療を開始。現在の八代市通町に八代修道院が建てられた。

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当時の建物は「シャルトル聖パウロ修道院記念館」として保存されており、国の登録有形文化財に認定されている。

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また、当時の赤煉瓦塀も一部残されており、その頂部には切り妻屋根が載っていて、当時の街並みに調和していた。

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この塀も昨年、国指定文化財に指定されている。 この修道院の活動は、児童施設「ナザレ園」や、

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私立八代女子技芸学校の開設と繋がり、その精神は戦争の荒波を乗り越え、現在の八代白百合学園高校(井上町)に受け継がれている。

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史跡めぐりの後、新八代駅の先からJR鹿児島本線沿いの道に出て、ひたすら北上。

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道の駅 竜北のミニお好み焼きで栄養補給し、

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来た道を帰った。

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本日の走行距離:94.8㎞

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