(「弥一郎」は通称で、「盛弘」が本名)
4月14日に隈庄から嘉島を抜けて北上した別働第二旅団の山川浩中佐の隊はさらに進軍し、夕刻までに一気に熊本城へ入城した。
2月21日に城の周囲を薩軍に包囲されてから実に54日目であった。
熊本城に籠城した鎮台側の将校の妻子も空堀の中に天幕を張って避難した。
その中のひとり、第13連隊長・与倉知実の妻・鶴子は身重で、薩軍による総攻撃が始まった2月22日に女児を出産。その場所を示す小さな石碑が監物台樹木園の入口の管理棟横にひっそりと建てられている。
ところが、そんな鶴子の夫・与倉連隊長は激戦となった「段山の戦い」で無情にも被弾。(与倉連隊長が被弾した戦場となった段山の「藤崎台童園」に建てられた与倉連隊長の顕彰碑)
翌日に死去した。
2月24日、小倉に上陸した政府軍が南下してきたために薩軍は熊本城総攻撃を中止。熊本城包囲のために約3000名を残し主力部隊を北上させ、以後しばらく、熊本城周辺では小競り合いが起こる程度であった。
3月12日、僅かな距離の塁を挟んで両軍が睨み合う段山では、両軍の罵り合いから、屁のこきあいが始まり、(『屁合戦絵巻』・・・どうやら昔の人は随意に屁が出せたらしい)
それが高じて、2日間に渡る戦闘が始まった。籠城戦中、最大の100名以上の戦死者を出し、鎮台側が段山を奪還した。
3月26日、薩軍は井芹川の石塘堰を止め、熊本城の水攻めを始めたが、思うような戦果は得られなかった。
この頃には鎮台側の食糧事情はかなり悪化しており、蛋白質は死んだ軍馬の肉からネズミの肉まで食い尽くし、食事は米と粟の粥だけになっていた。
城内の状況を衝背軍に伝える目的と、籠城側の食い扶持を減らす意味もあり、薩軍の包囲を突破する「突囲隊」を送り出すことになった。
4月8日、午前3時、城内から明午橋、安巳橋を護る薩軍を鎮台側の急襲隊が攻める隙に、突囲隊が白川を徒歩で渡り、(突囲隊が白川を渡った箇所には案内板が立っている)
(甲斐青萍筆「熊本城突囲隊の図」)
水前寺・健軍・中無田・隈庄を経て宇土の衝背軍と連絡した。こうして城内の様子が初めて政府軍の知るところとなった。
そして衝背軍は川尻から北上し4月14日に熊本城に入城。
一方、3月20日に田原坂を突破した後も、三の岳・木留・植木・野々島の薩軍防衛ラインに手を焼いていた政府軍本隊は、ようやく4月15日には植木を手中に収め、南下して衝背軍に一日遅れて熊本城に入城した。
54日に渡る籠城戦を戦い抜いた谷干城・鎮台司令長官。自陣視察中に敵の狙撃を受け、弾が咽喉を貫通する傷を負いながらも籠城戦を生き抜いた。
そして、彼を支えた鎮台兵は700名を超える死傷者を出した。
生き残った鎮台兵は、二年後の明治十二年に、熊本城の正門でもあった現在の清爽園に慰霊碑を建て、西南戦争をはじめ、神風連の変、佐賀の変、台湾出兵で戦死した鎮台兵の霊も併せて弔った。