(地震以前はこんな標柱が境内にたっていたのだが・・・)
闇の中の銃撃戦は総勢200名の乃木隊に対して数に勝る薩軍が優位を保ち、乃木隊は後方の千本桜へ撤退。
この際、薩軍は連隊軍旗手の河原林雄太少尉を討ち取り、軍旗を奪った。
千本桜で集結した乃木隊は政府軍の象徴である軍旗を奪われた事に気づき、この時以来、乃木希典の苦悩は生涯続くことになる。(千本桜の三池往還沿いにある「乃木大将記念碑」)
「たかだか、軍旗ごときで・・・」と思うけれども、「軍旗は軍の大元帥たる天皇から直接手渡しで授けられる極めて神聖なものであり、また天皇の分身であると認識されたいへん丁重に扱われ、帝国陸軍や連隊をあらわす旗という意味以上の存在とされた(Wikipediaより)。」
木葉の戦い(2月23日)
この後、木葉まで撤退し、14連隊の後続と合流して総勢約700名で布陣を組んだ乃木隊に対し、23日早朝、薩軍はさらに6個小隊を増援し総勢約1800名で木葉に進軍し戦闘が始まった。数に勝る薩軍は優位に戦いを進め、乃木隊の吉松秀枝少佐が戦死。乃木少佐の奮戦も虚しく稲佐方面からの高瀬に退却した。その最中山鹿から来た薩軍の1小隊が、木葉山を迂回して稲佐村へ回り込み、乃木隊側面を奇襲。予期せぬ攻撃に乃木少佐は乱戦の中で馬を撃たれて落馬。二名の政府軍兵士が身を挺して庇って戦死し、少佐は難を逃れて敗走した。(「乃木第十四連隊長奮戦址」の碑)
(現地の案内板)
高瀬の会戦(2月25日~27日)
政府軍の討伐軍本隊は南関に本営を置き、増援部隊を高瀬に送った。一方、熊本城を包囲していた薩軍本隊は包囲を継続するための4000名を残して北へ移動した。
そして高瀬の菊池川を挟んで両軍が対峙し、石貫、高瀬、伊倉周辺で三日間に渡り激しい戦闘が繰り返された。
この「高瀬の会戦」は田原坂の戦いの前哨戦と言う風に捉えられているが、両軍の本隊がぶつかった初戦であり、結果的にその後の戦局の流れに大きく影響した点で「西南戦争の関ケ原の戦い」とも呼ばれている。
薩軍は一時菊池川を渡り高瀬周辺にまで達し、その後、一進一退に経過したものの、最終的には政府軍の優位で終了した。(梅林の集落には手作り感満載の案内板)
この戦いの最中に西郷小兵衛(こへえ)が戦死した。
西郷小兵衛は隆盛の六人兄弟の末弟。長兄の隆盛とはニ十歳も離れており、小兵衛が六歳の時に両親を亡くしたので隆盛は特に可愛がり面倒を見た。長じると容貌、性格ともに隆盛に似ており、人望も厚かった。薩軍一番大隊一番小隊長として出陣。2月27日の高瀬をめぐる攻防戦で、羽根木(はねぎ)川を境にして羽根木八幡宮に立てこもる官軍大部隊と激戦を展開、堤防上で陣頭指揮をとっていた小兵衛は銃弾を胸に受けて倒れた。(花が絶えないらしい)
(政府軍が立てこもった繁根木神社)
(神社の石垣のあちこちには弾痕が残る)
薩摩兵たちは近隣の家から雨戸1枚を貰い受け、倒れた小兵衛をそれに乗せて高瀬川渡り、桃田方面へ向かったが、小兵衛は間もなく息絶えた。31歳の若さだった。
高瀬から退いた薩軍は稲佐の木葉山中腹に砲台を築き、熊本城下へ大砲を運ぶ唯一の道である三池往還の田原坂とその周辺に陣地を構えて政府軍を迎撃することになった。
いよいよ次回は西南戦争のハイライトの「田原坂の戦い」、と言う事で腹が減った我々はシンドバットでそれぞれハンバーグを堪能し、玉名女子高の玄関にあるレリーフを観に行って、菊池川沿いを山鹿方面へまわって帰った。
本日の走行距離:88.1㎞