先日、薩摩隼人のこくろさんから、熊本の東の方での西南戦争をレポートせよとのお達しがあった。
そこで、車載で二重の峠を越え、坊中のブッチャーKさんちに車を置かせてもらい、カルデラを反時計回りに一周して阿蘇の西南戦争史跡巡りをしてきた。
明治10年2月25日頃、大津に進出した薩軍は大願寺に本営を置き、
東は二重の峠から、西は原水までの戦線を整えた。
さらには折から阿蘇で勃発した一揆に乗じて阿蘇谷にも進出し、一揆者の一部も薩軍に取り込み始めていた。 阿蘇地方の薩軍に対し、政府は警視隊を派遣した。一揆への対応も考慮して、軍隊よりは警視隊の方が良かろうとの思惑があったらしい。 檜垣隊長が率いる警視隊114名は2月20日に横浜を出港し、小倉に上陸後、陸路中津を経て3月1日豊後大分に到着した。 この警視隊は、豊後から阿蘇地方へ向かったので「豊後口警視隊」と呼ばれた。 当時の警視隊員の多くは会津藩の出身で、
戊辰戦争に破れ新政府からは屈辱的な扱いを受けていたので、その元凶である薩摩を討つことはまたとない機会であり、多くの警視隊員は自ら志願してこの派遣に応じた。 その中には1番小隊長・佐川官兵衛がいた。
元会津藩家老であり、鳥羽伏見の戦いでは右眼の上に銃創を受けながらも平然と指揮を続け、薩長から「鬼の官兵衛」と怖れられた佐川官兵衛は、会津の人たちに絶大な人気があった。 豊後口警視隊は3月7日大分を出発、翌8日は竹田に駐屯。10日には4番小隊を坂梨に進め、
11日には本営を波野の笹倉まで進めた。 3月11日、4番小隊は坂梨から内牧に進出し、翌12日には警視隊本営は笹倉から坂梨に移動し、二重の峠による薩軍と対峙した。 一方、南郷谷に進んだ佐川官兵衛率いる1番小隊は白水に本営を構え、地元の有力者に協力を要請し、有志からならなる「南郷有志隊」を結成。
その活動は警視隊への道案内、物資の運搬、情報収集などであった。さらに当時南郷谷でも勃発していた大規模な一揆の鎮圧などにも当たった。 そして3月18日、黒川口、二重の峠で砦を構築した薩軍と警視隊が遂に衝突。地の利と兵力に勝る薩軍が警視隊を退け、黒川口の戦いでは小隊帳の佐川官兵衛が被弾して戦死した。 官兵衛が命を落とした黒川口は東海大学東側の県道149号線沿いで、「西南の役公園」として整備されていたが、
残念ながら1年前の地震での地滑りで公園全体が壊滅的な被害を受けた。
また、東海大学の正門横から県道149号線に上がっていく道路沿いには、黒川口の戦いでの戦死者を追悼して「西南役慰霊碑」が建てられていたが、これも倒壊していた。
その日の、もう一方の激戦地であった二重の峠では車帰の交差点に慰霊碑が建てられている。
官兵衛は出陣に際して、白水村の群塚神社に参拝し、
隣接する明神ケ池の水を飲み、
辞世の句を詠んだ。 君が為 都の空を打ちいでて 阿蘇山麓に身は露となる 白水村では官兵衛の遺徳が代々語り継がれ、明神ヶ池の周辺には佐川官兵衛の記念碑が建てられている。
官兵衛の死をきっかけに警視隊の動きは消極的になったものの、阿蘇谷の坊中・内牧・宮地・坂梨を確保していた。 しかし、薩軍には中津からの援軍(中津隊)が加わるなどして阿蘇谷に勢力を拡大。警視隊は竹田に一時後退後、援軍の到着を待って、産山に本営を進めた。そして4月13日、滝室坂に陣地を築いていた薩軍と、産山・波野方面から攻める警視隊が衝突した。 豊後街道の最大の難所である滝室坂を
上り切ったところに
薩軍は砲台を置き、多くの土塁を作った
。 そのひとつが県道57号線沿いに残っていて、
背の高さほどの草むらをかき分け、かき分け、斜面を100m余り上って行ったが、
塹壕の形を残すその丘の頂上に建てられた「西南役慰霊碑」は、案の定、無残に倒壊していた。
「滝室坂の戦い」に敗れた薩軍は二重の峠へ後退し、4月20日に大津の本営が木山へ退却するまで二重の峠で警視隊の西進を阻んだ。 本日の走行距離:67.4㎞