昨年の5月、ネットで見たニュースで「熊本市中央区本山にある石光真清(いしみつまきよ)の旧居が改修された」とあった。
「石光真清」も知らなければ、その人の手記を編集し出版したという「城下の人」ほか四部作の事も知らなかったので、ネットで調べてみた。 Wikipediaによると、「石光 真清(慶応4年8月30日(1868年)10月15日) - 昭和17年(1942年)5月15日)は、日本陸軍の軍人(最終階級陸軍少佐)、諜報活動家。明治から大正にかけてシベリア、満州での諜報活動に従事した。」とある。
通常なら歴史の表舞台には出ない人物であるが、のちに真清の長男・真人の手により手記(遺稿)四部作『城下の人』『曠野の花』『望郷の歌』『誰のために』が出版された。この四部作は、昭和34年に毎日出版文化賞を受賞し、石光真清という軍人の存在が世の知るところとなった。 そこで、「城下の人」を市立図書館から借りて読んでみた。
なかなか面白い本だったので、石光真清の旧居の改修を記念して昨年6月6日(土)に熊本テルサで開かれた「石光真清を語る会」にも参加。
空家となっていた旧居の保存に尽力された地元の顕彰会の方、顕彰会の事務局長で元陸上自衛隊陸将補の宮本一路さんと西部方面総監の番匠幸一郎陸将、それに元内閣情報調査室で情報分析に従事した吉村郁也さんの3人が真清の生涯から日本の将来までをパネルディスカッション方式で熱く語った。
今日はその石光真清の手記を編集した「城下の人」に登場する熊本市内の各所をいくつか廻ることにする。 嫁を誘ったところ、「従妹とランチの約束があるから」とのことで、ひとり寂しく街乗り用のシクロクロスバイクで出発。 昼飯時になってしまったので、旧居に向かう途中でひとり豪華に鰻を食う事にする。
銀座橋の本荘側のたもとにある東濱屋には「ひまつぶし」というメニューがあり、
早い話が「ひつまぶし」なんだけど以前も書いたように商標登録の関係で「ひまつぶし」になっているとmoriくんに教えてもらった。
お腹は膨れたけれど心も財布も軽くなって店を出る。 産業道路を熊本駅方面に走って本山4丁目にある石光真清の旧居(石光真清記念館)へ。
南側の縁側にパネルが並べてあり、説明書きや家族の写真などが展示されていた。
「城下の人」では、ここの庭に当時の熊本では珍しかった大きなケヤキの木があったと書かれていたが現在はなく、その代わりに人の背丈ほどのケヤキの幼木が植樹してあった。
内部の見学を希望する場合は熊本市文化振興課等、所定の箇所に連絡すると15分くらいで開けてくれるらしい。 そこから少し道を戻り、「城下の人」に何度も出てくる長六橋を渡り、
熊本駅方面へ。 その当時は「祇園山」と呼ばれていた花岡山のラブホ群の中を上って行くと、
頂上の少し手前に「乳水」という湧水がある。
この近くで当時9歳だった石光真清が出会ったのが「神風連の乱」を起した敬愛党の幹部だった加屋霽堅(はるかた)。
そしてそこから少し道を下るとその約1年後、西南戦争で薩軍が眼下の熊本城を攻撃するため砲座を築いた場所。
薩軍がここに砲座を置いた52日間、石光真清は友人らと毎日のようにここに遊びに来ていて、薩軍の兵士らとも随分仲良くなっていた。 「城下の人」は新風連の乱や西南戦争に関して地域の住民レベルの目線から描いている。しかも、ふたつの事件の当事者たちとの交流が描いてあり、興味深い。 特に西南戦争の際に、熊本城の天守閣の火災が城下に延焼した際の市井の様子や復興の息吹の描写については胸に迫るものがある。 花岡山の頂上から現在の市街地を眺めても、当時の様子を想像することは難しい。
帰路に横手、坪井周辺で、いつものB級文化財ハントを行い、
合志市でもうひとつ用事を済ませて帰った。
本日の走行距離:31.4㎞