数年前、宇土半島一周した時に、たまたま立ち寄った三角西港の「浦島屋」が、小泉八雲の短編小説「夏の日の夢」の舞台となっていた事を知った。
その後、しばらくしてその短編小説を読んでから訪れた「浦島屋」は、前回の時とは違う印象で、二階のバルコニーから小説の一場面を思い出しながら景色を眺めた。
そうやって考えると、最近の若い人達が「聖地巡礼」と称して、映画やアニメなどで使われた場所を実際に訪れて楽しむのもよく解るようになった。 今年になって熊本が舞台となった小泉八雲の短編小説集を読んだので、熊本市内の「聖地」を巡礼することにした。
まずは鶴屋デパートの南側にある「小泉八雲熊本旧居」へ。
小泉八雲(当時はまだ日本に帰化する前で「ラフカディオ・ハーン」の名)は明治24年(1891)年11月、熊本大学の前身である第五高等中学校(明治27(1894)年に第五高等学校と改称)の英語教師として島根の松江中学校から赴任し、明治27年10月までの3年間を熊本で暮らした。
熊本に来て最初に住んだのがここで、この家を借りるにあたって、八雲は特に注文して神棚を設けた。
そして毎朝、神棚に拍手を打って礼拝したという。 その他、旧居内には八雲が執筆活動に使用した机も残されていており、
日本で働く台湾人ビジネスマンのグループなども訪れて、館長の話を熱心に聞いていた。
ここのすぐ近くの白川に掛かる「安巳橋」を舞台にしたのが「橋の上で」。
橋から眺める熊本城下の風情や、人力車夫が語った西南戦争のエピソードが興味深い。 そこから新町を経由して本妙寺へ。
ここは短編小説「願望成就」の、冒頭に登場する。日清戦争の開戦時、朝鮮で活躍した加藤清正にあやかって、多くの兵士が戦勝祈願にここを訪れた様子が描かれていた。 次は上熊本駅へ。
小泉八雲が居た明治26年当時の駅名は「池田駅」で、その名残を残していた旧駅舎は残念ながら解体され、その一部が路面電車の駅舎に利用されている。
当時の「池田駅」を舞台にしたのが短編小説「停車場にて」。 巡査殺しの犯人が護送されてくる際の、駅でのエピソードがなかなか印象的。 そこから京町に上がって、実家にちょっと寄ってお茶を飲みつつ、短時間だけど母の話し相手になって、熊本地方裁判所の横の「観音坂」を下って、「スポーツサイクル・クシ」のすぐ近くにある二番目の旧居跡へ。
熊本での最初の家で一年足らず過ごしたのち、ここへ移り、熊本を去るまでの2年間をここで過ごした。
ここは現在は社宅になっており、その筋向いに残されていた「東岸寺跡の六地蔵」は5、6年前に天草へ移設されてしまったが、
短編小説「生と死の断片」では地蔵祭りの様子が情緒豊かに描かれている。また、この家にあった井戸の話も興味深い。 八雲はここから狭い路地を人力車で五高に通っており、「八雲通り」という名がつけられている。
彼と同じようにして「八雲通り」を走って国道3号線を渡り、
子飼商店街を抜けて、
豊後街道を渡って、
さらに路地を進んで熊本大学の構内へ。
その横には1894(明治27)年1月27日にラフカディオ・ハーンが英語で演説した「極東の将来」の結びの言葉が彫られている。
英語の授業を通しての生徒たちとの交流は「九州の学生とともに」に活き活きと描かれている。 また、当時の五高の校長は講道館柔道の創始者、嘉納治五郎であり、八雲の良き理解者であった。
八雲が治五郎を質問攻めにして書いたエッセイ「柔術」には当時の柔術の精神論など詳しく記述してあり、後に「柔道」が世界に広まったのは、このエッセイも一役を担っていると言う。 最後に訪れたのが、熊本大学の北側にある小峯墓地。
八雲は授業の合間に良くここを訪れており、特に墓地の南に座る「鼻かけ地蔵」がお気に入りだった。
ちょっと哲学的な「石仏」はこの地蔵をモチーフにしている。 石仏の前から八雲が眺めた熊本の街並みをしばし眺めて、
新しい竜神橋を渡って帰った。
本日の走行距離:22.5㎞