先日、1008さんから教えてもらった六地蔵を見に午前9時過ぎからクロモリロードバイクで出発。
出水ふれあい通りを走って画図の田舎道を抜け、中の瀬橋を渡って加勢川沿いを西へ。
川尻を抜けて「日本最古の干拓地」の旧・天明町へ。
ここは鎌倉時代の寒巌義尹(かんがん ぎいん)の勧進により、銭塘をはじめとする干拓が始まり、耕地が広がるとともに、江戸時代に入って天明年間(1781~1789)に人工河川の「天明新川」が開削され、
それによって潤された地域が河川の名にあやかって「天明村」と名付けられた。
ちなみに、わたしが中学生でサッカー部に所属していた時は、県下では天明中学校が強豪校として知られており、「天明」と聞くと、今でもレスペクトの感情が湧いてくる。
さてその天明町の中心部である奥古閑の三叉路には六地蔵と庚申塔が建っていて、
そこから700mほどの銭塘地区の集落の三叉路に目的の六地蔵が立っている。
しかし、よく見ると、地蔵菩薩が彫ってあるはずの龕部(がんぶ)は比較的新しく、しかもその六角柱の面には地蔵菩薩ではなくて、字が彫られているではないか。
うーん、これは初めてのパターン。
正面の文字だけは草書体で「南無地蔵尊」と彫ってあり、左へ向かって「天下和順(てんげわじゅん)」、「日月清明(にちがっしょうみょう)」、「風雨以時(ふうういじ)」、「災厲󠄂不起(さいれいふき)」、「國豊民安(こくぶみんなん)」で、「自転車くまさん」によれば、「天下泰平を願って唱える祝聖文」とのこと。
形態から察するに、おそらく当初は通常の六地蔵として建てられたものが、龕部(がんぶ)を造りなおす時に、何らかの理由で地蔵菩薩ではなくて、現在の様に彫られたものと推測する。
風変わりな六地蔵の少し北には、前述の寒巌義尹の両親を祀る「歳星宮(さいせいぐう)」。
さらに数百メートル北には明治9年の「新風連の変」を起した熊本敬神党の首領・太田黒伴雄が宮司をしていた「新開大神宮」がある。
そこから東へ走り、「内田の六地蔵」の四つ角から北上し、
白川沿いの道に入り、河原で始まった「どんどや」の炎を見ながら帰路を急いだ。
本日の走行距離:36.3㎞