くまもと自転車紀行

熊本市およびその周辺を走行した記録や装備・メンテなど、自転車にまつわることがらを中心としたブログです

高僧・寒巌義尹ライド

熊本(肥後)にやって来て、亡くなるまで暮らした歴史上の有名人と言えば、加藤清正や宮本武蔵などがまず頭に浮かぶけど、仏教界では寒巌義尹(かんがん ぎいん)という妙ちくりんな名前の高僧がいる。

今日はクロモリロードバイクで寒巌義尹に所縁のある三つの寺(宇土市岩古曽町の如来寺、熊本市南区川尻の大慈禅寺、熊本市中央区坪井の報恩禅寺)を廻った。

朝の加勢川

寒巌義尹(建保5年(1217年) - 正安2年8月21日(1300年10月4日))は、鎌倉時代中期の曹洞宗の禅僧で、父は順徳天皇(一説に後鳥羽天皇とも)。それゆえに彼の門派を「法皇派」と呼ぶ。

14才で出家し、比叡山で天台教学を学び、以後は禅宗に転派し、広く仏道を修めた。

その後、南宗時代の中国へ二度渡り、帰国して2年後、肥後国宇土郡古保里(こおざと)越前守の娘と伝えられる素妙尼の要請に応じて拠点を肥後へと移し如来寺を建立した。

本堂横に立つ古保里越前守の墓碑

 

義尹は寺院への寄進のみならず社会インフラの整備のために金品を募りに活動する「勧進聖(かんじんひじり)」的性格も強く、鎌倉幕府などの支援を得て、河尻荘を流れる緑川への架橋工事を計画した。

この際の幕府からの支援は、丁度、元寇(1回目1274年 2回目1281年)の間のことで、九州南部からの交通路確保の意味もあったとされる。

当時、白川は熊本市二本木近くから南流しており、現在の大慈寺の南で白川と加勢川が緑川に合流していた。

そのすぐ川下の河口にある河尻津はすでに交通の要所であったが周辺に橋がなく、しかも水勢が激しいために渡し舟も時に危険を伴い、九州一の難所と言われていたのだ。

1278年、2年に及ぶ難工事の末、義尹が62歳の時に長さ150m、幅4.8mの大渡橋が完成。落成式典では1,000人の僧による供養法要が盛大に行われたという。

大渡橋が架けられた辺りの緑川

そして同じ年に義尹はこの橋の北側に大慈禅寺を創設。

この寺はその後、曹洞宗史上初の官寺の許可を得、公家、武家の祈祷所として九州一円から人が集まり繁栄した。

この他にも義尹は県内の曹洞宗の寺院の整備に力を尽くした。

熊本市中央区坪井にある報恩禅寺は寒巌義尹の高弟・仁叟浄煕(にんてい じょうき)が創建したもので、

本尊の木造十一面観音像は

義尹の指導により造られた事が平成になってからの調査で判明したという。

宗の影響を受けた、ふくよかな観音様

1298年、82歳で如来寺に隠遁し、1300年、84歳で如来寺において死去した。

宇土市花園町から1504年に岩古曽町に移った如来寺の本堂裏にはひっそりと陵墓が建っている。

また、大慈禅寺には大変立派な祖廟があり、

道を曲がって突き当りの霊廟所には、

開祖・寒巌義尹の「霊根塔」が建っていて、

その後ろには義尹を見守る様に両親の慰霊塔も並んで建てられていた。

本日の走行距離:43.2㎞