くまもと自転車紀行

熊本市およびその周辺を走行した記録や装備・メンテなど、自転車にまつわることがらを中心としたブログです

阿蘇・西南の役余話

早く寝たので午前4時頃に目が覚めた。 このところ、名実ともに「じじい」になってきたせいか、うちの家内も、やけに優しくなってきて、前夜に朝食を用意していてくれるようになったので、有難く頂戴して、

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準備をしてまだ暗い中、カーボンロードバイクで5時半頃に出発。 北バイパスから県道337号線に降りて東へ走り、光の森の所から県道316号線および県道49号線を走り、竹迫を抜ける辺りに東の空が明るくなってくる。

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峠川を渡って右折して猿渡の集落を抜け、

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平川淀姫神社からは長い上りに突入。

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真木からは県道23号線に入り、さらに坂を上る。

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やがて阿蘇市に入り、車帰の交差点を過ぎると、二重峠から先は濃い霧が立ち込めていて、

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どうやら今朝は雲海が出ている模様。

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二重峠の所で少しは阿蘇谷の雲海が拝めるかと、しばらく霧が晴れるのを待ったが、どうもしばらく晴れそうにないので、下りへ。

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ところが、そこから先の霧はやけに冷たくて、震えながら坂を下る。 下り切ったら直ぐに左折して、豊後街道に入り、

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「めぐすり石」など見て、

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参勤交代の休憩所である「的石御茶屋」でトイレ休憩。

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寒い!

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さらに走ると、県道149号線に合流し、しばらく走ると左手にあるのが「法教寺」。

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この寺院の開創には西南の役が関わっている。 法教寺のホームぺージによれば、教法寺は元来、内牧にある満徳寺の境内に末寺として四ヵ寺があったものの一ヵ寺。

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(かなりでかい満徳寺)

文久四年(1864年)、第九代恵瑞師が本願寺より「教法寺」の寺号の認可を受けた。 その約10年後、西南の役の際、的石(尾ヶ石村的石)の住人である山内柳八(38歳)が選ばれて官軍の密偵として二重峠方面の敵情を探察に行き、捕らえられて惨殺された。 的石の有志の人々がその葬儀を営むのに西南の役の最中であるため寺僧が出向くことは困難であった。 現に、坊中の西巌殿寺の住職厨亮俊は、農民たちに薩軍にも協力しないよう阿蘇谷を説得してまわったのが薩軍の知る所となり、激しい拷問を受けて命を落としていた。

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(坊中の西巌殿寺)

そんな中、本願寺から「教法寺」の寺号の認可を受けた恵瑞師の嗣子・得忍(27歳)が進んで出向き柳八の葬儀を執り行った。 その勇気に村人はいたく感謝して敬慕して止まず、明治14年頃村人の切望によってこの地に一寺を建立した。 的石の市道の傍らには「山内柳八殉難の碑」の存在を示す錆びた標柱が樹に立てかけてあり、

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石段を上がると、地震で倒れた石碑が、台座に立てかけてある。

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石碑には事の顛末を書き記したと思われる文字が彫ってあるが、わたしにはほとんど読めない状態であった。

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(ひょっとすると、石碑は上下逆さまになっている?)

なお、「教法寺」は熊本地震の際に本堂が倒壊し、

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その再建のために募金をしていることを知ったので、石碑の在り処を教えていただいたお礼も込めて僅かばかりの募金をさせていただいた。 帰路は県道149号線を赤水方面へ。

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期待した阿蘇五岳の姿は拝めなかったが、太陽が出て寒さも緩んできた中、国道57号線に入り、気分よく坂を下り、

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立野の先からは瀬田に降り、県道207号線から県道145号線に入る。

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募金のお礼にと頂いたジュースで

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喉を潤しながら帰った。

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本日の走行距離:75.0㎞

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