くまもと自転車紀行

熊本市およびその周辺を走行した記録や装備・メンテなど、自転車にまつわることがらを中心としたブログです

移民県・熊本の先人めぐり

午前7時過ぎにカーボンロードバイクで出発し、甲佐町と城南町を廻った。

と言うのも、昨日、昼飯を食べながらTKUの「Youは何しに日本へ?」を見ていたら、和歌山から南米へ移住した93歳のおばあちゃん一家が和歌山に里帰りしたのを密着取材していたのだ。

「移民」と言えば熊本県は、広島、沖縄に次いで第3位の海外への移民送出数を誇る移民県。甲佐町や城南町にその所縁の史跡がある。

 

まずは出水ふれあい通りから画図の田舎道を走って中の瀬橋を渡り、

国道445号線から県道106号線に右折して南下し、甲佐町に入り、左に折れて早川(そうかわ)地区へ。

早川六地蔵の

すぐ近くにあるのが、甲斐政次郎の顕彰碑。

甲斐政次郎は、明治13年(1880年)上益城郡甲佐町に生まれた。9歳の時にハワイに渡り、勉学に励んだ後、20歳頃に米国本土に移った。その後、ロスアンゼルスでは日本人会長を務め現地邦人の福祉増進に努め、多くの邦人が従事する農産物市場の開発に尽力し、「南カルフォルニア花市場会社」を設立するなど、日系社会のリーダーとして活躍した。昭和38年にここ、政次郎の生地に顕彰碑が建てられているのだ。

 

さらに南下して緑川沿いの県道220号線に入ると鵜ノ瀬堰の少し先に、蒙古襲来絵詞で有名な竹崎季長に所縁の有る甲佐神社が鎮座している。

その本堂の手前にある一対の石灯籠が建っている。

寄進したのは、「布哇(ハワイ)國出稼人中」で、

裏面に二人の斡旋人の名前が彫られている。

うち、ひとりは「鮎の簗場」近くの「四方仏と五輪塔」がある墓地に

父親の墓石を建てているが、

その裏面には布哇(ハワイ)で命を落とした二人の息子の名前も刻まれている。

 

セブンイレブン甲佐岩下店で小休止後は緑川を渡って県道240号線を北上して

船津六地蔵

 

南区城南町に入り、高速の少し前で左に折れ、「パイン通り」を進んで「火の君文化センター」へ。

その敷地の一角に建てられているのが上塚周平(うえつか・しゅうへい)の銅像。

上塚周平は1876年(明治9年)旧・城南町赤見村(熊本市南区城南町赤見)に生まれた。済々黌中学、五高、東京帝大を経て1908(明治41)年、笠戸丸による第1回移民団の監督としてブラジルへ。しかし現地の経営主と移民者との間にトラブルが多発。周平は移民会社の事業の不統一が、日本人移民の順調な発展の阻害要因となっている事実を認識する。移民政策を統一することを国に提案するため1914年(大正3年)に帰国し、事業の改善に奔走するが、受け入れられなかった。そこで遂に彼自身が移民事業を興す意志を固め、1917年(大正6年)8月にブラジルに渡った。1918年、サンパウロ北西約400キロのプロミッソンで上塚植民地建設に着手したのを手始めに、移民事業に心血を注いでいった。1935年に58歳で死去。生涯独身で過ごし、「移民の父」と慕われた。

周平は旧・城南町で最初の「名誉町民」となり、ブラジル移民百周年を迎えた平成20年に銅像が建てられ、その業績を後世に伝えている。

その後、西北へ走って城南の農地を抜けるように進み、城南町赤見にある上塚周平の生地を訪ね、

県道182号線を北上。

春めいた加勢川沿いの道を東へ走り、

中の瀬橋からは朝来た道を帰った。

本日の走行距離:60.1㎞