くまもと自転車紀行

熊本市およびその周辺を走行した記録や装備・メンテなど、自転車にまつわることがらを中心としたブログです

「マナブ・マベ」ライド

前回に引き続き、熊本から昭和初期にブラジルへ移住した人で、画家として知られたマナブ・マベの所縁の地を廻ることにする。

 

土曜日の仕事を終えて、帰宅後昼飯を済ませ、午後2時頃にカーボンロードバイクで出発し、中ノ瀬橋、めど町橋を渡って、

国道を走って宇城市へ。

 

マナブ・マベ(間部学)は1924年(大正13年) は 熊本県宇土郡不知火町(現・宇城市)に生まれた。当尾尋常小学校に通う頃には、よくクレヨン画を描くようになっていた。

現在は「当尾小学校」

 

1934年(昭和9年) - 10歳の時、宿屋を営んでいた両親と共にブラジルへ移住。サンパウロの奥地の開拓した赤土の上にコーヒー、米、綿、トウモロコシなどを作りながら成長した。

1945年(昭和20年) - 仕事の合間に油絵具を使って厚紙や板きれに絵を描き始める。

1950年(昭和25年) - サンパウロ作家協会展に入選。徐々に注目を集める。

1950年作の自画像

1957年(昭和32年) - 自らのコーヒー農園を売却しサンパウロ市に移住。専業画家となるが生活は苦しく、看板描きなどで凌いだ。

1959年(昭和34年) - 国内外での受賞が相次ぎ、アメリカ・タイム誌に取り上げられ、世界的な知名度を上げて絵も売れ始め、その抽象画は「ブラジルのピカソ」とも呼ばれるようになった。

1979年(昭和54年) - 1月、故国の日本で開催された個展を終え、100点余の作品を積んだヴァリグ・ブラジル航空機が成田国際空港を離陸後に遭難し、代表作の大半を失う。しかし、間部はその後14年かけて喪失した1点1点を描き直したという。

1997年(平成9年) - 6月、東京で開催された個展を最期に、9月、サンパウロ市内の病院で内臓疾患手術後の合併症のため73歳で死去。

その作品の多くは不知火美術館に収蔵されている。

ところが、現在の常設展示には残念ながらマナブ・マベの作品はなし。

気を取り直して、宇城市の田舎道を北上し、宇土市を抜け、

川尻からは新幹線の高架沿いを北上し白川沿いを走って太甲橋からは右に折れて大江の県立劇場へ。

何と工事中だったけど、工事のおにいちゃんに頼み込んで正面玄関から裏の駐車場への通路にあるマナブ・マベの作品「人類の行進」を鑑賞。

1980年、46歳の時の作品で、「大地に生きる者の強さ、何千年の歴史を地球に刻んできた人類の行進。太陽と月と星、朝と昼と夜、光があり闇がある。そして我らはより良く生きるため文化を目指して行進する。そんな勝手なことを考えながら、この作品を制作した。」とのこと。

ちなみに、ここの演劇ホールの緞帳もマナブ・マベ氏の作品だけど、残念ながらこれは格納されていて見ることはできなかった。


本日の走行距離:49.4㎞