くまもと自転車紀行

熊本市およびその周辺を走行した記録や装備・メンテなど、自転車にまつわることがらを中心としたブログです

熊本の「託麻」・・・(後篇)

前回に続き、託麻に遺る歴史をもう少し・・・。

昨日朝のライドの後に関連する場所を廻った

水前寺陸上競技場の南側に、「天授勤王戦跡」の碑がある。

元和元年(1378年)、九州探題に就任した北朝方の今川了俊(貞世)の軍と、16歳の菊池武朝と20歳の良成親王ら南朝方の軍が戦った「託麻が原の戦」の記念碑である。

菊池武朝

良成親王

北朝軍20,000人に対し南朝軍3,500人とも言われている圧倒的劣勢のなかで南朝方が奇襲作戦で奇跡の様な勝利を収め、南朝方が勝利した最後の戦いとされている。

時は流れて江戸時代の中期。この地を開拓しに入植した農民たちが原野を掘り返すと、託麻が原の戦いで討ち死にした者たちと思われる夥しい数の白骨が出て来た。

人々は僧を呼び、死者の霊を弔い、そのお経を金属の箱に収めて「経塚(きょうづか)」として地中に埋めた。

こちらは玉名の横島山の頂上にある「経塚」

その一帯はその後も「経塚」と呼ばれ、一方、多量の白骨はそこから1㎞ほど東の地で荼毘に伏され、その地は「灰塚」と呼ばれた。

やがて「経塚」周辺には徐々に人が住むようになり、いつしか「京塚」と名前を変えていった。


「灰塚」の少し北には、鎌倉時代の託麻の地頭・阿蘇三郎惟盛からとった「三郎」もあるし、「託麻」の歴史が色んな地名に残っている。

後日見つけ出した「三郎村創立記念碑」

ちなみに明治以降の京塚については、この周辺は、西南戦争の最大規模の戦闘である「城東会戦」の前線の中央となって再び激戦の地となり、その後、明治末期には広大な「帯山練兵場」となり、

帯山練兵場での昭和天皇の御親閲記念碑


第二次大戦末期には、傷痍軍人の増加により京塚町に「熊本陸軍病院健軍臨時分院」が造られるなど、

京塚本町公民館の近くにある石碑


閑静な住宅地となった今では想像ができないような歴史が詰まっている。