くまもと自転車紀行

熊本市およびその周辺を走行した記録や装備・メンテなど、自転車にまつわることがらを中心としたブログです

「軍都」の痕跡探し

態本は1871年に鎮西鎮台の拠点が設置されて以来 、熊本鎮台、第六師団の本営が置かれ、維新直後から第二次大戦の敗戦に至るまで約70年間にわたって軍事拠点(軍都)であり続けた歴史を持つ。

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(西南戦争当時の熊本鎮台司令長官・谷 干城)

その中枢は熊本城およびその周辺に置かれたが、連隊の兵営や演習場のいくつかは私が住む保田窪の周辺に置かれた。 昭和6年頃の地図を見ると、

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自宅の東側には帯山練兵場、そして西側には渡鹿(とろく)練兵場、その周辺に「工兵第六連隊」、「歩兵第十三連隊」、「野砲兵第六連隊」、「騎兵第六連隊」の兵営が置かれている。 この週末は色々と用事があったので、その合間に数回に分けて自宅周辺の「軍都の痕跡」を自転車で見て廻った。 まずは保田窪の東側にあった「帯山練兵場」。 戦後、敷地のほとんどは民間に払い下げられれ宅地化され、熊本市の基幹道路である東バイパスも突っ切っているため、

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その面影は残っていないが、帯山4丁目の民家の塀と、

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旧・再春館製薬所の敷地の一角に同じような内容の石碑が建てられている。

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昭和6年(1931年)沖縄・九州・山口各県の男女学生・青年団員・青年訓練所生・在郷軍人等六万六千余名が帯山練兵場で、天皇陛下の御親閲を受けた。

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さらに観衆も数万人いたようで、当時としては一大イベントだったらしい。 自宅から数百メートルのところのJR豊肥線の西側からはじまる「渡鹿練兵場」も宅地化しておりその痕跡はほとんど見当たらない。

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(「渡鹿公園」を眺めて「練兵場」を想像)

渡鹿練兵場の周辺の兵営のうち、「工兵第六聯隊」の兵営は現在の熊本県警察学校と熊本大学大江総合運動場の付近に置かれた。 熊本県警察学校の正門を入った右側の楠木の、

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袂に「皇太子殿下御野立所之跡」碑。

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大正9(1920)年に昭和天皇(当時、皇太子殿下)が渡鹿陸軍練兵場で行われた近隣部隊の演習を御視察された際、工兵第六大隊兵営において御休息されたのを記念して建立された。 楠木が成長して、幹が石碑を包埋しようとしている。 警察学校正門を入った左側、守衛室の奥に「工兵第六聯隊跡」碑と「至誠」碑。

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「至誠」碑は、昭和7(1932)年に建立された、当時の大隊長・細田四郎工兵大佐の筆による。 その横の「工兵第六聯隊跡」の碑は昭和51(1976)年4月17日に工六会(工兵第六聯隊戦友会)により建立された。 警察学校内で史跡の写真を撮る間、付いていただいた教官どのと門番の警官の卵の方に御礼を言い、警察学校を後にして、そのの西隣にある熊本大学大江総合運動場へ。 入口の門柱は、「工兵第六聯隊」のものを移設し、改修したものらしい。

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さらに、この運動場の裏口付近には前述の「至誠」碑と同様な、当時の大隊長・細田四郎工兵大佐の筆による碑が建てられているが、達筆過ぎて、何と書いてあるのか、詳細不明。

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産業道路から熊本学園大学付属高等学校への入口には「歩兵第十三聯隊」の赤レンガの営門門柱が残されている。

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中へ進んで左にある「県営・山の上団地」の駐車場の一角にフェンスに囲まれた「皇威無窮」碑。

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満州事変における熱河作戦・関内作戦参加を記念し建立されたものらしい。 さらに進んで、熊本学園大学敷地内の北端には、連隊の酒保(兵士相手の日用品・飲食物などの売店)の建物が残っており、現在は改修されて熊本学園大学の第2体育館として使用されている。

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また、最近、渡鹿交差点に移転した「熊本県民テレビ」から「スポーツクラブ・ルネサンス」にかけての石垣は当時の遺構だとのこと。

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熊本市大江の白川中学校からYouMeマート周辺には野砲兵第六聯隊の兵営があった。 白川中学の正門は連隊の営門門柱を移設したもの。

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国家公務員合同宿舎白川住宅の敷地内には、兵営が当地に移転してきた明治32(1899)年に建立された「勇噴偉勲」碑と、

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昭和56(1981)年3月、野砲兵第六聯隊及び同関係部隊の元将兵の方々により建立された「野砲兵第六聯隊之跡」碑が残されている。

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最後に「騎兵第六聯隊」。 熊本市大江の現在の、開新高校、大江市民センター、市立図書館、ハローワークなどを含む一帯には騎兵第六聯隊の兵営があった。 開新高校の玄関前の駐車場横には「騎兵第六連隊趾」碑、

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それに騎兵隊ならではの「馬魂碑」。

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「軍都の痕跡」を廻って帰宅すると、裏のお庭のサクランボの花が満開となって、ヒヨドリが蜜を吸いにやってきていた。

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今回の史跡巡りには「大日本者神國也」 および、「まめ八のブログ」が大変役に立った。 なお、今回の史跡の多くは公共の土地にはないので、事前の許可が必要だった。