くまもと自転車紀行

熊本市およびその周辺を走行した記録や装備・メンテなど、自転車にまつわることがらを中心としたブログです

熊本の進駐軍

熊本県内に遺る戦争遺産については大方見て廻ったが、戦後間もない頃の話は母から少し聞いたことがあるだけなので、図書館その他で調べて市内を早朝ポタリング。

 

1945年8月14日、日本はポツダム宣言の受諾を連合国に通告し、第二次世界大戦は終了した。日本の主権は天皇から連合国に移り、連合国軍(主に米軍)が駐留し、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)が日本政府を通じて支配する間接統治が始まることになった。

ご存知、マッカーサー元帥

日本人は彼等を「GHQ」あるいは「進駐軍」と呼んだ。

九州へは同年9月3日、鹿屋地区に、10日には米国第5海兵軍団が佐世保に進駐した。その後に当軍団は佐世保に本部を置き、九州各県及び山口県主要都市に進駐した。

熊本への本格的な進駐は10月5日から始まり、連隊長マックファーランド大佐を長とする本体が熊本市北区八景水谷の旧陸軍熊本幼年学校を兵舎とし、「キャンプ・ウッド」と呼ばれた。

北熊本駐屯地の陸軍幼年学校跡

その他にも旧陸軍第六師団歩兵第十三聯隊跡と、大江地区旧各聯隊跡一帯に駐留した。その後、駐留部隊は数回交代し兵員数も変化したが数千人が駐留していたと伝えられている。

進駐当初は、司ホテルに軍政部が置かれ、

現在は「熊本和数寄(わすき)司館」

間もなく、県庁の仮庁舎となっていた熊本市公会堂に移動し、

跡地に建つ市民会館

初代のマーフィー長官が県・市に指令を出して、経済・民生・教育・文化などあらゆる面で民主主義革命を指導した。

県知事、市長と懇談するマーフィー長官

また、GHQとは別組織の対敵諜報部隊(Counter Intelligence Corps; CIC)も進駐し、料亭の「新茶屋」に配置され、当初は右翼活動、その後は共産主義者の動向を探った。

現在は福田病院のお食事処

同様に別組織に属する憲兵隊(Military Police;MP)が当時、花畑町にあった中華料理の「東洋軒」に配置され、米軍人の事件・事故の調査、風紀違反の取り締まり、民間地域での警察活動を行った。

懐かしい!

 

GHQによる日本全国の都道府県ごとの統治は、一様ではなく、地域ごとの特性や状況に合わせて異なる取り組みが行われた。

熊本県は稲作を中心とした農業県であり、農地改革が広く行われた。

わたしの母方の祖母は、山鹿の地主の家の四姉妹の末っ子で、上三人が嫁に行ったため、婿養子を貰って跡を継いだが、その婿養子が医者だったため熊本市に住むこととなり、不在地主となった。

昭和33年頃の祖母とわたし

GHQが主導した農地改革では、祖母のような不在地主には土地の所有が認められず、二束三文で国に買い取られ、小作人に分配された。

 

また、明治維新以来、熊本市は「軍都」であったため、進駐当初は武装解除が県内各地で広く行われ、

健軍飛行場で「飛龍」を調査する進駐軍兵士

 

その後「公職追放」が実施された。「公職追放」とは職業軍人であった者や、軍国主義に繋がるような思想の団体役員などが政府や民間企業の要職に就くことを禁止する施策である。

地主の末娘に養子に入った祖父は、日中戦争中は軍医として従軍し、

前列中央が祖父

 

帰還後は熊本城内にあった陸軍病院に勤務し、終戦時は病院長となり、陸軍の階級上は大佐となっていた。

これが災いして「職業軍人」と見なされ、公職追放となり、折から持病の心臓病の悪化により数年後、失意の内に他界した。

一家の大黒柱と土地を失い、祖母一家は経済的に苦しい時期を過ごすこととなった。

 

進駐軍は、日本の主権が認められた1951年のサンフランシスコ講和条約後も日米安全保障条約に基づき駐留を続け、一部は米軍基地として今でも残っている。

熊本の進駐軍は1955年7月に撤収を開始し、キャンプウッドを米軍が引き渡したのは1956年10月14日。実に11年の歳月が流れていた。

この間、キャンプウッドの米軍は、周辺の農地を接収し、現在の駐屯地の敷地の大きさに拡大していったが、


陸軍幼年学校時代に建てられていた雄健神社(おたけび神社)などを「聖地」として大切に管理、保存していた。

これを感謝して自衛隊駐屯地となった後は、キャンプウッドに建てられた教会を長年にわたり講堂として保存し、老朽化のために取り壊すことが決まった際にも、教会建物の屋根の尖塔部を保存し、教会が建っていた場所に残している。

本日の走行距離:15㎞くらい(なお、北熊本駐屯地は見学予約が午後3時からであったため、自家用車で訪問。担当のヒルカワさんには悪天候の中、大変お世話になった。)