くまもと自転車紀行

熊本市およびその周辺を走行した記録や装備・メンテなど、自転車にまつわることがらを中心としたブログです

「保田窪」今昔

わが家から自転車で数分のところにある保田窪(ほたくぼ)北交差点。

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東バイパスと産業道路・国体道路の幹線道路が交差しており、県内で一番の交通量となっている。

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通勤時間帯の交通渋滞も激しく、その緩和策として産業道路から国体道路方面への車線の左端の車線を左折専用とし、横断歩道をなくしてある。

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そのため、自転車で産業道路から国体道路方面へ直進することが難しく、交通法規的にも横断歩道を迂回して行くのが妥当となる。

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ちなみに、この「保田窪北交差点」の名称だけど、

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この交差点の北側にあるのが「保田窪交差点」で、

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その南側にあるのに「なんで保田窪北交差点?」と不思議に思うのが保田窪住民の正直な気持ち。

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そんな保田窪の起源は江戸時代初期の1634年。当時の領主であった細川忠利の命によって、託麻台地の開発と戦時に備えて「地筒(じづつ)」と呼ばれる熊本藩独自の鉄砲隊の郷士達が入植したことに始まる。 菊陽町の「鉄砲小路」に似た面影を今に残す「保田窪中通り」の

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(わたしめの自転車通勤路でもある)

中央部に鳥居が立っていて、

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参道を進むと、

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鉄砲隊の入植時に「産土神」として建立された保田窪菅原神社の社殿がある。

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境内には保田窪の起源を刻んだ石碑が立っていて、

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その反対側の石碑には「熊本協同隊出陣の地」と彫られている。

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「西南の役(明治10年)に際し、ルソーの社会契約論に刺激を受けた人々が結集した熊本民権党は、専制政府を倒すことでは同じ考えだとして、薩軍に呼応することに決した。明治10年2月20日、同志40名はこの神前に集結して出陣式をあげ、投票で平川惟一を隊長に、宮崎八郎を参謀長にえらび、檄文を読み上げて隊名を『協同隊』と定めた。隊は翌21日薩軍本営に入ったが、隊士はのちに400人をこえた」というような内容のことを解説板に書いてあった。 (「熊本協同隊」の事をもう少し詳しく知りたい方はこちらのレポをどうぞ) 西南の役と言えば、ここ保田窪は官軍が熊本城を奪還した後の「城東会戦」の時の激戦地のひとつとなった。 「関ケ原の戦い」以降、我が国史上最大の野戦となったこの会戦では、木山を本営とする薩軍側8000人、熊本城を本営とする官軍30000人が、大津から御船までの20㎞におよぶ前線の両側で対峙した。

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中央となる保田窪~健軍にかけては激しい戦闘となり、ここでは薩軍側が優勢であったが、前線の両翼の大津・御船で官軍が圧倒し、総崩れした薩軍は矢部へと敗走した。 (「城東会戦」についてもう少し詳しく知りたい方はこちらのレポをどうぞ) 東バイパスから北バイパスに入り、竜田山に続く丘陵を上り、右に折れ、さらに坂を上った所には「龍田御野立所(おのだちどころ)公園」がある。

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その一角には城東会戦の時の官軍の砲兵陣地跡の石碑がたっている。

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また、この公園はその名の通り、昭和6年に昭和天皇がこの地に行幸された記念に整備されたもので、中央には御野立を顕彰する石碑がたてられている。

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昭和6年に熊本で行われた陸軍特別大演習のため昭和天皇が来熊された際、第六師団の「帯山演習場」を一望できるこの丘に立ち演習の全景を観閲されたとのこと。

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陸軍第六師団の帯山演習場と渡鹿演習場に挟まれた保田窪の人たちは、戦争の足音も敏感に感じていたに違いない。 保田窪本通と産業道路(以前は「軍用道路」と呼ばれた)の交差点近くに「忠霊塔」が建てられている。

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昭和12年7月の支那事変から昭和20年8月までの大戦で保田窪から召集され祖国のために戦い、命を落とした41名の霊を弔うもので、古くからここ保田窪に暮らしてきた人たちの結びつきの強さを窺わせる。