雨が朝で上がったので午前10時半頃からクロモリロードバイクで出かける。 京塚経由で県道226号線を南下し浮嶋神社から
サントリービール工場の丘を越えて御船に入り、門前川眼鏡橋経由で
木倉から県道221号線で軍見(ぐみ)坂を上るつもりだったけど、どうも工事をやっているらしい。
仕方がないので、道を戻り、国道443号線から国道445号線に入り、下鶴眼鏡橋のところから
道を左に折れ、坂を上って、川内田の集落を抜けてマミコゥロードに入り、さらに坂を上って、県道221号線との交差点を右折すると御船町七滝の上野地区に到着。
ここにある鼎春園(ていしゅんえん)は、幕末の勤王の志士、宮部鼎蔵と弟の宮部春蔵を記念して作られた公園で鼎蔵と春蔵から、一文字ずつとって名付けられた。
大正2年(1913年)建立の顕彰碑を始め、兄弟それぞれの歌碑、宮部鼎蔵の像などがある。
その近くには兄弟の生家跡があり、
産湯に使った井戸が残されている。
また、少し離れた丘の上には宮部一族の墓所も残されている。
幕末、肥後勤王党を率いた宮部鼎蔵は、文政3年(1820)4月、上益城郡木倉手永田代村(現在の御船町上野)で宮部家の長男として生まれた。宮部家は、代々医者の家系であったが、鼎蔵は文武を好み、叔父の宮部増美(ますよし)の家を継いで山鹿流の兵学を修め、30歳のとき、熊本藩の兵学師範となった。
嘉永3年(1850)、肥後を訪れた長州藩の吉田松陰が鼎蔵の元を訪れ、
二人は意気投合。西洋兵学の必要性を説く松陰の話に鼎蔵は深く感銘を受ける。 翌年、遊歴し諸国の志士と交友。やがて国学者の林桜園が開く「原道館」に入門し、
国学古典の研究を始め、この頃から幕府を倒すべく勤王の志を高めていくことになる。 ところが鼎蔵と親交を結んでいた松陰が安政の大獄(1859)で処刑されるなど、幕府側の弾圧は次第に強さを増して行った。 そんな中、鼎蔵は長州藩の志士らと行動を共にし、京都へ潜伏。 元治元年(1864年)6月5日、池田屋で会合中に新選組に襲撃され、鼎蔵は重傷を負い、新選組に捕縛されることを恥辱として、自刃して果てた。享年45才。
ちなみに池田屋事件では鼎蔵の他にも二人の肥後勤王党の志士が襲撃を受けた。そのひとり、松田重助は斬殺された。
もうひとりの、菊池出身の高木元右衛門は剣術に秀でていて近藤勇に脇差と短刀で応戦、包囲を脱出した。
その翌月、池田屋事件の報復を兼ねて「禁門の変」に参戦した。長州藩兵の先峰として、会津・薩摩藩兵の警護する禁門(蛤御門)に、両刀振りかざして切り込み、壮絶な戦死を遂げた。
弟の春蔵は鼎蔵の自害の翌月、「禁門の変」に参戦。天王山で幕府軍と戦い、自刃した。享年28才。
明治維新のわずか3年前であった。 二人の生家のところから谷へ下り、八勢眼鏡橋の桜を堪能し、
七滝のところから国道445線を下り、御船の定食屋で日替わりランチをいただき、嘉島のイオンモールを経由し、中ノ瀬橋を渡って帰った。
本日の走行距離:59.5㎞