くまもと自転車紀行

熊本市およびその周辺を走行した記録や装備・メンテなど、自転車にまつわることがらを中心としたブログです

南北朝の古戦場めぐり

諸々の用事を午前中に済ませ、午後1時過ぎからクロモリロードバイクで史跡散策に出かける。 昨日、くまもと歴史文学館の館長さんによる、菊池一族に関するクローズドな講演会に参加したが、その中で、南北朝時代(1336~1392年)の古戦場の史跡がわが家からそう遠くない所にあることが判ったので行ってみるのだ。 まず訪れたのが菊陽町辛川(からかわ)の、わたくしの西原方面からの帰路によく使う田舎道から、

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少し南に入った所にある「六道塚古墳」。

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この塚の概要は、直径7メートル、高さ約3メートルで、未調査のため、断定はできないが、その形状、位置、地名、古代住居跡などからみて二段築成の円墳と推定され、周辺では多くの弥生式土器も見つかっている。

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塚の上には楠の大樹がそびえ、

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その根元には「神石」が祀ってある。

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この神石は、「さくらぎ神社」と称され、益城町寺中にある津森神社の末社と伝えられている。 また、この塚の一帯は、古くは唐川(辛川)原とよばれ、1336年8月18日、南朝方の菊池武敏、阿蘇惟澄の連合軍と北朝の将、今川蔵人太夫、託磨別当宗直、小代重峯らが激戦を繰り返した古戦場である。 (菊陽町のHPより) そして帰路の途中で訪れたのが、水前寺競技場と野球場の間にある「天授勤王戦跡」の碑。

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託麻原古戦場の碑である。

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熊本市周辺は、その昔、白川より西側を「飽田」、東側を「託麻」と呼んでいた。 「託麻」の中でも、阿蘇外輪山から続く東部台地の一部を「託麻原(たくまばる)」と呼んでおり、

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周辺にある多くの学校の校歌にも登場する。 変遷を経て「託麻」は住所名からは消えてしまったものの、熊本市東部の広い地域に残っている。

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そんな託麻原を舞台に、1378年9月29日、菊池武朝、

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(「天授勤王戦跡」の碑の横のレリーフ像 )

良成親王の

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(「天授勤王戦跡」の碑の横のレリーフ像 )

若武者2人に率いられた南朝方は菊池一族を中心とする少ない兵力(3500名という説あり)で今川了俊率いる北朝の大軍(2万名という説あり)と相対した。兵力に劣る南朝側は武朝・親王ともに負傷するなど、一時苦戦を強いられたが、苦境を打開し北朝を敗走させて奇跡的大勝利した。南朝最後の勝利であった。

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(甲斐青萍(せいひょう)筆『託麻原合戦図』 )

この合戦の犠牲者は南北両朝側併せて8万1千人とも言われ(先ほどの説の兵数からすると、あり得ない数字)、以前、健軍のサンパレスには合戦での戦死者を慰霊する「八万千部之碑」が建てられていたが、経営者の変更とともに撤去されてしまったのは誠に残念。

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(ネットより引用)

本日の走行距離:28.8㎞

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