くまもと自転車紀行

熊本市およびその周辺を走行した記録や装備・メンテなど、自転車にまつわることがらを中心としたブログです

わが家も戦場?「城東会戦」

明治10年4月14日に日奈久から攻め上がって来た衝背軍に熊本城の包囲を解き、翌15日には政府軍本隊に三の岳から植木を経て野々島に至る防衛ラインを破られた薩軍は、二本木から木山に本営を移した。
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(木山の薩軍本営跡は木山小学校となり、現在は「益城町文化会館」)
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そして政府軍の追撃態勢が整う前に、大津、長嶺、保田窪、健軍、御船を拠点とする防衛ラインを再構築した。
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この時の薩軍の総勢は薩軍本隊とこれに加わった、熊本隊、熊本協同隊、竜口隊、飫肥隊、貴島隊などの党薩諸隊を合わせて約8000人。 これに対して政府軍は、片川瀬、竹迫、立田山、熊本城下東部、川尻、隈庄、堅志田に拠点を置き、総勢30000人の兵力で臨んだ。
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(立田山の東側、龍田御野立所には「官軍砲兵陣地跡」の碑)
4月17日には御船で、に4月19日には健軍で戦闘が始まり、そして4月20日早朝から熊本平野の約20㎞におよぶ戦線の各地で一斉に戦闘が始まった。 美咲野から鉄砲小路にかけて激しい戦闘が行われた大津では
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多勢の政府軍に対して薩軍20日日没まで対等に持ち堪え、
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(激戦地のひとつとなった現在のホンダの南門近くの解説板)
長嶺、保田窪、健軍では一進一退ありながらも薩軍優位であった。 特にわたくしめの住む保田窪での薩軍の反撃は凄まじく、一時は熊本城に攻め込むほどの勢いであった。 しかしながら御船では
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薩軍に加え熊本隊、熊本協同隊、人吉隊の熊本諸隊も奮戦したものの、兵力に勝る政府軍に後退を余儀なくされ、20日夕刻には総崩れし木山方面へ敗走した。
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(御船町妙見坂に建つ「熊本諸隊奮戦の碑)
町を流れる御船川は薩軍兵士らの血で赤く染まったと言われる。
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(多くの薩軍兵が命を落とした御船川の若宮渕)
20日夜、御船方面からの敗走兵で混乱した木山の薩軍本営では矢部・浜町への撤退を決断した。 戦線を維持できなくなってきた大津の薩軍も木山に戻り、攻勢に出ていた長嶺、保田窪、健軍の陣営も撤退した。 こうして、関ケ原以来の国内最大の野戦となった城東会戦は1日で終結した。
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この会戦での官軍の死傷者は700名以上で3月20日田原坂・総攻撃を上回る被害を出した。 薩軍および党薩諸隊はこの後、九州山脈に入り込み、長い長い敗走を続けることになる。