前回、金峰山の修験道についてレポートしたが、熊本県内では、他に阿蘇山や市房山などが霊山として崇められ、修験道が行われてきた。
山へ籠もって厳しい修行を行うことで悟りを得たもの達は、山伏とも呼ばれ、各地の山を修行して回る途中で命を落とした山伏を埋葬した墓や、多くの人が亡くなって造られた塚などを山伏が加持祈祷を行って供養したものは「山伏塚」と呼ばれ、熊本では「やんぼしづか」として各地に残っていることをこのブログでもレポートした。
今回、山鹿にも山伏の墓が残っていることが分かったので訪ねてみる。
早朝、5時半過ぎにクロモリロードバイクで出発し、
北バイパス、日田街道から高速道路の脇を北上し、
小野泉水、植木温泉を経由して宮原からは国道3号線を北上。
お墓の前にちょっと寄り道をして菊池川を渡り、
温泉街を抜けて、
ホームセンター・グッディ山鹿店の隣の「山伏温泉」へ。
温泉の名前の由来など何も書いてなかったので、後ほど電話で伺ったところ、所謂、「山伏」とは特に関係ない、とのこと。
そこから東南へ走り、方保田を経由して山鹿南部大橋で菊池川を渡り、左折して千田川を渡った小柳集落の外れの大きな樹の下に「山伏さんの墓」が立っている。
この地の伝承によれば、各地の霊山を廻る途中にこの地に寄った山伏が腹痛を起こし、亡くなってしまい、供養したもので、以前は他の場所にあったのを平成2年の田圃の区画整理事業の際に移設したもので、地元では「やんぼしさん」の愛称で親しまれている。
一方、肥後国司によれば、この墓は「玉名郡和仁村の和仁親宗の墓といい伝えられている」とある。
この和仁親宗は、肥後国衆一揆の際に、三加和の田中城に立て籠って戦った和仁三兄弟の末弟で、
母親は切支丹大名の大友宗麟から側室として贈られた南蛮(オランダ人)女性。そのため身長が2mを越え、剛力で、顔が赤くて鬼の様だったとのことで「人鬼」とも呼ばれた武将なんだけど、このお墓に関する真偽はいかがなものか?
「やんぼしさんの墓」に別れを告げた後は田舎道を南下して合志川沿いの道に入り、
植木温泉からは朝来た道を戻り、立石からは坪井川沿いの道を南下して、三軒町通りを走って帰った。
本日の走行距離:64.2㎞