くまもと自転車紀行

熊本市およびその周辺を走行した記録や装備・メンテなど、自転車にまつわることがらを中心としたブログです

「楓の森」をポタリング

土曜日、午前中の仕事を終え、帰路遠回りして合志市の黒石原(くろいしばる)へ。 まず訪れたのが、国立療養所の菊池恵楓園。

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明治42年、ハンセン病患者が強制隔離された療養所としては全国最大規模の「九州らい病療養所(後の国立療養所菊池恵楓園)」が開設された。 ハンセン病は、らい菌の感染により末梢神経が麻痺したり、顔や手足が変形したりする病気で、不治の病として昔から世界中で忌み嫌われてきた。

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(映画「ベン・ハー」では主人公の母親と妹がハンセン病となった)

特に熊本では加藤清正の影響でハンセン病の患者が多く集まるようになり、明治になると全国でも社会問題となっていた。 (熊本とハンセン病の関わりについて知りたい方はこちらの記事をどうぞ) 明治28年に制定された法律「癩予防ニ関スル件」が制定され、この法律をもとにして、明治42年全国5カ所に公立療養所が開設されたが、そのうちの一つがこの療養所である。 その療養所の南東部の広大な地区に昭和16年4月、逓信省の「熊本地方航空機乗員養成場」が開設され、その後に陸軍に接収され、「黒石原陸軍飛行場」となった。

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また、ハンセン病の療養所の南側には昭和17年「傷痍軍人療養所再春荘」も建設され、こうして黒石原は一大軍事地域となり、熊本電気鉄道が人員や物資の輸送を担った。

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(「再春荘」はその後、結核の療養所を経て地域の中核病院へ)

戦局の悪化につれて特攻隊の中継基地として使用されるようになり、昭和20年5月13日には米軍の爆撃を受け、再春荘の医療関係者6名、民家でも2名が犠牲となり、らい療養所の患者2名も爆撃に巻き込まれた。 飛行場は戦後、米軍に接収されたが、昭和33年に返還され、農業用地、公園、住宅地、陸自演習場などとして使われてきた。 そんな旧黒石原陸軍飛行場の史跡として唯一残っているのが「黒石原コミュニティーセンター」の前にある「奉安殿跡」。

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旧日本軍の軍事施設には必ず設置されたもので、教育勅語や天皇陛下の写真を納めたものだが、戦後進駐軍により破壊され、県内で残っているのがここだけという。

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(昭和16年創建当時の「奉安殿」)

さて、一方、終戦の昭和20年頃には治療薬が開発され、その後、多剤を併用した化学療法も確立し、治癒する病気となったハンセン病であったが、日本では昭和28年に制定された「らい予防法」のもと、患者たちは依然として強制的に療養所に収容され、外出の制限や、断種手術・堕胎手術が行われた。こうした隔離政策は、平成8年に「らい予防法」が廃止されるまで40年以上も続いた。

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(映画「砂の器」より)

菊池恵楓園に隣接する旧黒石原陸軍飛行場の敷地の一角に昭和28年、菊池医療刑務支所が開設された。ハンセン病の患者である被収容者を収容する専用の刑事施設としたこの施設は、昭和61年3月に全体改築が行われた後、平成8年3月のらい予防法の廃止に伴って、収容を停止した。

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(Google Mapのストリートビューより)

その間に延べ117名(うち全体改築後は1名)の被収容者が収容され、所内に設置された臨時法廷では、ハンセン病を理由とする開廷場所として指定される運用が行われることとなった。

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ちなみに、このようなハンセン病患者専用の刑務所は日本で、いや、世界でここだけ、とのこと。 そんな菊池医療刑務支所の建物は一昨年取り壊されて、その跡地にこの春完成したのが「合志楓の森小学校」と「合志楓の森中学校」。

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近接する2つの校区から生徒を分離して新設した小・中学校は建物や運動場、体育館を共有するが、別組織なので小中一貫校と言う訳ではないらしい。

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「楓の森」という校名には、この地区に昭和12年に楓の苗200本が植樹され、隣接する「国立療養所菊池恵楓園」にも「楓」の字がついている、などの理由があるとのこと。

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(今が楓の花期!)

もうすぐ初めての生徒の登校を待つ真新しい校門には石碑がはめ込んである。

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ここに「菊池医療刑務支所」があったことを記憶に留め、ハンセン病患者に対する偏見や差別を助長することにつながる事態が二度と引き起こされることがないような願いが込められている。

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