くまもと自転車紀行

熊本市およびその周辺を走行した記録や装備・メンテなど、自転車にまつわることがらを中心としたブログです

くまもと櫨(はぜ)紀行

昨日は水俣の、今日は玉名の櫨(はぜ)の名所を廻って来た。

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その時の写真と、これまで目にした櫨の見所や櫨関係の画像も加えて、熊本の櫨をご紹介。 江戸時代、原産地の東南アジアから琉球を経由して渡来した櫨の木は西日本の各藩で蝋燭や鬢付け油などを作るために植えられた。

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(水俣で買った和蝋燭に火を灯すと櫨蝋の匂いがたちこめた)

肥後では、既に寛永十一年(1634年)に櫨の実を米の代わりに上納することが認められ、寛文四年(1664年)にはその栽培が奨励されたという記録がある。

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(蝋の成分があるのは実の内部ではなく、その表面の皮の部分)

忠臣蔵で有名な赤穂浪士の大石内蔵之助が、仇討ののち細川藩邸に預けられていた元禄十五年(1702年)、櫨栽培の有利なことを進言したことから、細川藩での栽培が加速したと伝えられている。 その後、享保8年(1723年)に薩摩藩からより良い品種の櫨を仕入れ、櫨の生産高も向上し。 延享3年(1746年)には櫨方(はぜかた)役所が設置され、

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(「櫨方」の役所が置かれたのは現在の加藤神社のところ)

それまで民間に委ねられていた製蝋所を藩の直営にした。こうして櫨栽培と製蝋事業は、6代藩主の細川重賢の

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(熊本市西区島崎町の「三賢堂」の細川重賢公像)

「宝暦の改革」の殖産興業政策の柱の一つとして推進された。

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(行幸橋を渡った右側にある櫨方門は、当時の櫨方の門を移設したもの)

安政5年(1858年)の櫨木数は70万本、櫨の実は約500万斤(約3000トン)、製蝋高は約75万斤(約450トン)で、その大部分は大坂で売りさばかれ、売上高は約一万七千両(約20億円)に上ったと言われている。 しかし明治に入ってしばらくすると電灯が点くようになり、さらにはパラフィン製の安価な洋蝋燭が普及するようになると、たちまちほとんどの櫨の木は捨て置かれてしまった。

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それでも県内では、加勢川、

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(御幸木部町付近)

御船川、

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(御船インターの近く)
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緑川などの堤防沿い、

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(甲佐町麻生原付近)

豊後街道や

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(サンリー菊陽の付近)

豊前街道沿い

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(和水町永の原)
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などに櫨の並木が残っている。 中でも玉名市の菊池川から繁根木(はねぎ)川にかけての堤防には約3kmに渡って237本の櫨並木が残されていて、

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平成19年には植物としては日本で最初の国の登録記念物に認定され、

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地域住民がその保全に努めている。

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また、水俣市の東側の台地にある「侍集落」には

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江戸時代には約10万本の櫨の木が植えられていたが、現在でも約1万本の櫨の木が栽培されており、日本での櫨蝋の約30~40%が水俣で生産されている。

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水俣川から薩摩街道の難所の坂を上って

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着いた「侍」の集落には「はぜのき館」が建てられていて、

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櫨に関する資料の展示、

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(色んな製品に櫨蝋が使われている)

櫨蝋関係の製品の販売を行っている。

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「はぜのき館」の前には櫨畑があって、丁度収穫の真っ最中だったので、

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お話を伺ったところ、現在は生産の傍らで櫨の木の低木化の研究も行っているとのこと。

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(現在のところの「理想形」の木は高さ3m弱くらいの小型ながらで30㎏くらいの実が収穫できるとのこと)

というのも、木が大きくなると櫨の実の量は50㎏くらいに増えるが、高所での収穫作業が大変になるので、

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現在は品種を改良したり、枝木の剪定法を工夫して高さ2メートル半ほどの脚立で収穫ができる程度の木の髙さになるように試行錯誤しているとのこと。 ところで、侍の集落には「宝暦の改革」の頃に植えられた「宝暦ハゼ」が残っているというので、「はぜのき館」のおばちゃんに聞いて、案内板に従って

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足場の悪い大地の斜面を歩いて行くと、斜面の少し開けた場所に、幹回り3.9m、高さ10mの堂々たる櫨の大木が石垣に太く根を張っており、

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今でも、頑張って実をつけながら

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水俣の海を見下ろしていた。

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水俣地区の走行距離:11.4㎞

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玉名への走行距離;79.4km

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