明日の天気予報があまり良くないので土曜の午前中の仕事を終えて金峰山に行くことにする。 植木を経由して県道113号線に入り久しぶりに菱形から坂を上る。
玉東町に入ると辺りに色付いた蜜柑が目立つようになり、
その後もずっと峠の茶屋まで蜜柑畑を縫うように走ってきた。
熊本の蜜柑栽培の歴史を紐解いてみると、日本武尊(やまとたけるのみこと)の父親・景光天皇の九州巡幸の際、新羅からの橘の苗木が献上され、それを八代の地(高田)に植えたのが始まりとも伝えられている。
こうして熊本では古代から小みかんの栽培が盛んであったが、天明2年(1782年)に温州みかん栽培が伝わると、河内の領主・牛島七郎佐衛門橘公基が奨励し、それ以降は温州みかんの栽培が積極的に行われるようになった。
昭和7年には県立果樹実験場が河内に設置され、高度な栽培技術の普及により飛躍的な生産の向上が図られる一方、金峰山の西側斜面は広範囲に石垣を造成し、全国的にも有数の、みかんの産地となってきた。
平成8年には河内から荒尾にかけての果樹栽培地を結ぶ玉名広域農道が完成し、
高速道路へのアクセスが改善されるなど、流通の面にも力が注がれた。
同じく平成8年にはJA熊本河内支店に「光センサー選別システム」が導入され、商品価値を失うことなく蜜柑の糖度や酸度をモニターすることを全国に先駆けて行ってきた。 南越展望所に立つ標柱は、平成天皇・皇后両陛下が皇太子、同妃殿下時代の昭和37年に、九州を順啓された際、河内町の果樹試験場にご来臨される途中、この地に立ち寄られたことを記念するものである。
その横に建つのは漱石の句碑である。
漱石はこの地を三度踏んでおり、小天一帯の風物を「桃源郷」と表現している。
句碑には「降りやんで 蜜柑まだらに 雪の舟」と刻んである。 ナルシストの丘から、
もうひと上りした先の県道1号線沿いに大きな石碑が建っている。
この付近一帯では昭和29年、蜜柑畑の造成のために「日の出開墾」と呼ばれたパイロット事業が行われた。当時の河内村議会議員だった瀧口氏の発議に賛同した16名により組合が結成されてこの地域の開墾を計画したものの、資金不足のために、事業は地元農民の労働力に頼るしかなかった。
しかも当時は大型機械などほとんどなく、 開墾作業は主に人力で行われた。 朝は日の出前から作業を始めて、作業中に日の出となり、星が出てから帰るという悪戦苦闘が2年間続いたという。 「日の出開墾」の名称はその苦心を記念してつけられたものである。
その後こうした形での共同開墾事業による柑橘経営の大規模化・近代化が周辺地域にも広がり、現在の熊本蜜柑の生産を支えている。
峠の茶屋から坂を下って、上熊本の県立総合体育館に立ち寄ると、今日から始まる女子ハンドボール世界選手権大会の準備の真っ最中だった。
本日の走行距離:51.5㎞