鹿児島在住のヘイホーさんが奥さんのお実家の熊本へ来られたので、サイクリングにお連れすることになった。 先週、氷川町歴史資料館でもらったパンフレットに、江戸末期の肥後の石工で、薩摩でも活躍した「岩永三五郎」のことが紹介してあったので、その足跡を辿ることにした。 中の瀬橋で待ち合わせ、
めど町橋を渡って城南を抜け、浜戸川沿いの道を走って、県道32号を南下する。 浜戸川やその支流である小熊野川流域には下鶴(安見)橋、
山崎橋
などいくつも石橋がかかっており、その中で、娑婆神峠へ向かう道との分岐点にある三由(みつよせ)橋を架けたのが石工・岩永三五郎である。
さらに県道32号線を海東方面へと下り、県道52号線へ左折して、尾根を越えて八代市東陽町にある「石匠館」へ。
ここには熊本の石工に関する資料が豊富に展示されており、しばしお勉強。
熊本には江戸時代末期から「種山石工」という技術者集団があった。
その祖となったのは長崎奉行所の下級武士だった藤原林七である。 林七は長崎のアーチ石橋を見て「円周率」に興味を抱きオランダ人に接触するという禁を犯したことが発覚し、
長崎を追われた。武士の身分を捨て、肥後の種山(現在の八代市東陽町)に身を隠した。農業のかたわら、石工の技術を習得し、曲尺(かねじゃく)を使う独自の石橋設計術を編み出し、秘伝として種山の石工一族に伝えていった。
そんな石工集団の中に、三五郎という石工がいた。
三五郎は石工・宇七の次男として1793年に八代郡西野津村(現・八代郡氷川町)に生まれた(種山生まれとの説も)。 父と藤原林七に学び、アーチ式の石橋をつくる技術を学んだ。
25歳の時には日本で最初の水路橋である雄亀滝橋(おけだけばし)を架け、名を上げた。
不知火干拓の際には石工共総引き回し役として従事し、藩から「岩永」の姓を与えられて帯刀を許され、その後も矢部の聖橋など
アーチ式石橋を架け続け、さらにその名を広めていった。
48歳の時には薩摩へ招かれて、約10年の滞在の間に甲突川五橋など37もの眼鏡橋を架橋した。その他にも河川の改修工事、新田開発、道路、用水路の建設など、橋を含めた土木事業全体の技術者として活躍した。 57歳で薩摩から肥後へ帰る途中には、内情を知り過ぎたためという理由で薩摩の刺客に襲われるが、
三五郎の腹を据えた態度に心打たれたその刺客は三五郎を逃がしたと伝えられている。 そして、三五郎は帰郷2年後の1851年10月6日に59歳でその生涯を終えた。
鹿児島では、三五郎の功を顕彰し、平成12年、鹿児島市街地を流れる稲荷川の河口近くに、三五郎の架けた3つの石橋を移設し、「石橋記念公園」として整備された。
「性質淡薄寡欲にして、まことに良工なりしは人の能く知る所にして、水利を視、得失を考え、大数を測るに敏なる、はじめて見る地といえども神のごとし」と評された三五郎は鏡町芝口の墓地で静かに眠っている。
さて、石匠館からはあちこち石橋のある東陽町を抜け、
宮原を経由して、
三五郎が架けたと言われる鏡町の鑑内橋を観て、
三五郎のお墓参りをした後、帰路は県道14号線を北上してJR宇土駅の前にあるNICOへ先週のリベンジ。
「ホロチキ&キーマコンボ」を堪能。
国道3号線に出て、ウキウキロード、県道182号線を走り、
ヘイホーさんの奥さんのご実家経由で帰った。 本日の走行距離:82.3㎞