くまもと自転車紀行

熊本市およびその周辺を走行した記録や装備・メンテなど、自転車にまつわることがらを中心としたブログです

通潤橋ライド

文化の日。天気も良いので矢部に通潤橋を観に行く。 健軍から浮嶋神社を経由して

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御船に入り、軍見坂を上り、マミコゥの先から右折して国道445で矢部へ。 先ずはチポリーノで栄養を補給し、通潤橋へ。

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例によって、これまでに撮り貯めた画像なども利用してレポートを・・・ 通潤橋は、布田保之助が手掛けた事業の一つである。

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布田保之助は、天保四年(1833)から文久元年(1861)の約三十年の長きにわたり、矢部地域七十六ヶ村の長で、行政の責任者(惣庄屋)であった。保之助は、新田開発を目的とした用水路、溜池(堤)等の整備を行ったほか、道路や橋などの交通網を整備するなど、地域の実情に応じて数多くの開発事業を手掛けた。矢部地域で保之助の恩恵を受けない村はなかったといわれている。

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(棚田で有名な峯地区の「嘉永福良井手」も保之助が造った)

このうち最も有名なものが、白糸台地に安定した農業用水を供給することを目的に建造された通潤橋である。

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(本日の通潤橋)

矢部の中心地・浜町の南側、四方を谷に囲まれた8ヵ村、住民800名の白糸台地々は、水の便が非常に悪く、そのため農作物も満足に作れないばかりか、毎日の飲み水にも事欠いていた。

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(ネットから引用)

当初、保之助は、岩永三五郎が掛けた雄亀滝橋(おけだけばし)のような単純な水路橋を架けられないか考えた。

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そのためには高さ約30mの石橋を架ける必要があったが、当時の技術では困難で石工が首を縦に振らなかった。 そのため、架橋が可能な程度まで石橋の高さをさげ、さらに連通管の原理を応用して、一度水路橋まで降りた水を対岸の台地まで引き上げる方法を取らざるを得なかった。

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この「逆サイフォンの定理」の連通管の実現が困難を極めたが、失敗に失敗を重ね、改良に改良を重ね、ようやく実現にこぎつけた。

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(凝灰岩を削って造った「石樋」。これを連結させるのが難題だったらしい)

建設資金は現在の17億円に相当し、その調達に奔走した一方、多くの地域住民がこの難工事に協力を惜しまなかった。 石工は三五郎の甥で、霊台橋を完成させたばかりの種山石工「宇市・丈八(後の橋本勘五郎)・勘平」の兄弟が中心となった。

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架橋可能な高さまで橋を低くするとはいえ、石橋としては日本一の20mという高さで、しかも高圧の水に耐える導水管が三本も通る極めて重いものとなり、

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(通潤橋史料館のジオラマより)

これを支えるために、脚柱には熊本城の石垣に見られる「武者返し」の石組技術を応用した。

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こうして1年8ヶ月の苦闘の末、嘉永7年 (1854年)に橋は完成した。

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(2年前の通潤橋。放水の本来の目的は、堆積物の除去)

通潤橋から約6km離れた笹原川の堰から引かれた水は、

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円形分水を経由して、

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途中、トンネルもくぐって通潤橋へと導かれ、

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(補修工事中の通潤橋。現在もこんな感じ)

現在でも白糸台地に水を送り続けている。

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(白糸台地の棚田)

61歳で隠居した保之助は白糸台地最南端・津留集落の質素な家に住み、

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白糸台地を毎日のように見回っていたと言う。 布田保之助は明治6年、その功により、明治天皇から銀杯と絹織物を賜った。そして、その2ヶ月後の4月3日、72歳でその生涯を閉じた。

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後年、通潤橋の白糸台地側に「布田神社」が建造され、保之助の功績を称えている。

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また、保之助の子孫の転居に伴い、その墓も移され、JR熊本駅の新幹線西口の近くにある万日山の墓地で静かに眠っている。

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その横には通潤橋の形を模した大理石のベンチが置かれていた。

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通潤橋からは県道180号線で白糸台地を南へ走り、内大臣橋を渡ろうとしたら、交通止め。

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愕然としていたら、現場から車で出て来た工事関係者のお兄さんが、「今、作業休憩中だから自転車なら通してあげますよ」と助けてくれた。 橋を渡り、さらに走って県道218号線に入り、佐俣の「森のぱんや」で休憩。

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甲佐からは緑川沿いの道を走って帰った。

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本日の走行距離:101.5㎞

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