くまもと自転車紀行

熊本市およびその周辺を走行した記録や装備・メンテなど、自転車にまつわることがらを中心としたブログです

自分の中に差別の心はあるのか?

この秋(冬?)最初の本格的な寒波が襲来し天気予報も芳しくないので、近場のポタリング。 午前10時過ぎ、シクロクロスバイクで自宅を出発。裏小路を走って竜神橋で白川を渡り、

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熊本大学黒髪キャンパスの北東にある「リデルライトホーム」へ。

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ここの一角に、「リデル、ライト両女史記念館」がある。

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この記念館は、明治26年(1893年)イギリス国教会の伝道師として熊本に赴任し、ハンセン病患者のために生涯を捧げたハンナ・リデル(写真の右側)とその姪エダ・ライト(写真の左側)の功績を記念した建物で、回春病院(かいしゅんびょういん)の跡地にある。

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回春病院は、当時「伝染する不治の病」とされ、迫害を受けていたハンセン病患者のために、リデル女史が、英国、日本の教会、政財界(大隈重信や

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渋沢栄一

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など)に寄附を募り、創設した病院である。エダ・ライト女史は明治29年(1896年)に来日、リデル女史の後継者としてハンセン病患者のために尽くした。 回春病院は太平洋戦争時に強制解散させられたが、大正7年(1918年)に建てられた「ハンセン病病原菌研究所」の建物が両女史の業績をたたえる記念館として利用され、両女史が使用した机など貴重な資料数千点が展示されている。(「満遊くまもと」より引用)

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続いて、すぐ近くの熊本大学黒髪キャンパスへ。

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37年振りくらいに学生会館に入り、

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食堂で、

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カツカレーをいただく。

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今を遡る事100年ほど前、熊本大学の前身である第五高等学校のひとりの学生が

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(イメージです)

学校から眼と鼻の先にある回春病院でハンナ・リデル女史が献身的に働く姿を眼の前にして感動し、ハンセン病の診療のために一生を捧げることを決意した。後に「アジア救ライの父」とも、「日本のシュバイツァーと」呼ばれた宮崎松記博士である。

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宮崎博士は長年にわたって菊池恵楓園の園長も務めたが、その間はハンセン病患者の福祉に力を入れる一方で、患者の隔離政策を積極的に行うなど、評価が分かれるらしい。

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その後、黒髪キャンパスの西側にある小さな門を出て、裏小路を西に向かって進むと右手に黒髪小学校。

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ここは昭和29年に起こった「黒髪校事件(龍田寮事件)」の舞台となった。 回春病院が閉鎖された跡地にできた龍田寮(菊地恵楓園に入所している父母をもつ子どもが生活する施設)

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の児童が、地元の黒髪小学校に通学することに同校PTAの間から強い反対の声があがった。

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ハンセン病に対する偏見の根深さを世間に知らしめた事件である。 この事件はその後、15年ほど経って映画化された。笠智衆や小松方正などの俳優に加え、地元熊本市内の少年少女も出演したことも話題となった。写真の少年は当時、姉の同級生だった。

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そこから国道3号線、県道1号線を走り、本妙寺へ。

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加藤清正の菩提寺である本妙寺は、かつてハンセン病患者が全国から集まる寺として有名だった。

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その理由としては加藤清正が熱心な法華経信者であったことが指摘されている。というのも、法華経の経文の一節から「法華経を邪険にした者は『らい病』になる」という考え方が一般にあったらしく、また、いつの頃からか、加藤清正はハンセン病であったとの伝承が生まれ、同病者を救うとされていたからである。

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ともあれ、江戸中期には、「病気平癒の神」として清正は信仰の対象になっており、本妙寺にも祈祷を行う僧侶が存在した。当時、「不治の病」として怖れられていたハンセン病の患者も全国から一縷の望みをかけて参拝をしていたものと思われる。

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そして本妙寺周辺にはハンセン病の患者の集住地が形成されていったと考えられている。

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その後、この集住地は昭和15年の、警察による強制収容事件(本妙寺事件)まで存続することとなる。

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さて、ハンナ・リデルが本妙寺参道で物乞いする多くのハンセン病患者の姿を眼にして強い衝撃を受け、彼らの救済を始めた少し前には、カトリックの宣教師であったジャン・マリー・コールが、

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ここ、本妙寺を訪れ、同様に、ハンセン病患者の悲惨な実情を眼にして、本妙寺の近くに「中尾丸診療所」を建てて救済を開始し、その意志は島崎の「待労院(たいろういん)」として結実した。やがてこの地には親を失った子どもや路傍に捨てられた高齢者などの困窮する人びとも集まり、修道女たちとともに信仰に基づく共同生活を送る「聖母の丘」が形成された。

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島崎の、「赤ちゃんポスト」で知られる慈恵病院に

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隣接する敷地にあった待労院は私立のハンセン病療養施設として115年の時を刻み、入所者の減少により平成25年に静かにその幕を閉じた。

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現在はすでにその面影はなく、グループホームの建設が行われていた。

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最後に、合志市にある「菊池恵楓園」へ。

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現在も約280名が入所する国立の療養所の中心部に建つ「社会交流会館」の一階部分にある「歴史資料館」には熊本におけるハンセン病の過去、現在、未来に関するものが広く展示されている。

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入所者の生活の様子を展示した物の中で、

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目に留まった碁盤。

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入所者の手製の碁盤の上に置いてある木製の匙に心当たりがあった。 実はわたくしの父も公僕としての最後の数年間をこの施設に勤務していた。生前、碁を嗜んでいた父は、恵楓園の入所者とも時々碁をうっており、その話をよく聞かされた。 「入所者の中に碁の強い方がおられたが、その人は手の指のほとんどを失っており、碁を打つ時は匙を腕にくくりつけ、その匙で器用に一個だけ碁石を取り上げては寸分の狂いなく置いていた・・・。」 そんなことを思い出しながら、最後の展示室を出ると、目に入ったこの言葉。

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自分の中には恥ずかしながら、ハンセン病に限らず、いろんな差別の心があるような・・・と感じながら灰色の雲が速く流れる下を家へ帰った。

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本日の走行距離:45.4㎞

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