150年前の5月4日、明治政府は神仏習合を禁じる「神仏分離令」を布告した。神道の保護と国教化を進め、天皇の権威を絶対的なものとする狙いがあった。 これに伴い、仏教を迫害する「廃仏毀釈(きしゃく)運動」が過熱した。
全国で寺院や仏像が壊され、一方で仏像をはじめ、仏具や仏画などの文化財が海外に流出するなどして失われた。 例えば、先月の「ブラタモリ」でも奈良の法隆寺のことをやっていたが、
廃仏毀釈の影響で寺の維持が困難となり、聖徳太子画像をはじめとする300件余の宝物を当時の皇室に献納し、金一万円を下賜された、等々。
県内での例をいくつか紹介すると、まずは立田山の麓の「泰勝寺跡」。
江戸時代を通じて細川家の菩提寺であったが、神仏分離令により廃寺となり、細川家の別邸に改められた。その後、平成7年には同じく細川家菩提寺であった妙解寺(みょうげじ)跡(熊本市西区・北岡自然公園内)と共に「熊本藩主細川家墓所」の名称で国から史跡に指定された。
次は阿蘇・坊中の西巌殿寺。
阿蘇の山岳信仰は最盛期、西巌殿寺を本堂として、僧侶の坊舎が三十七、それに付属する山伏の庵が五十一を数えた。神仏分離令により、西巌殿寺の廃寺が決まったが、関係者の努力により、坊舎の中の學頭坊が「西巌殿寺」の名を継ぐ形で法灯が継承された。
最後は馴染みの深い本妙寺。
加藤清正の菩提を弔うための本堂と、
そこから「胸突雁木(むなつきがんぎ)」と呼ばれる急峻な石段を登ったその先に、
神となった清正を祀る「浄池廟(びょうちろう)」からなる。
神仏分離令により、本妙寺は仏事のみを行い、神事に関しては加藤神社(当初は「錦山神社」という名称)を別に造り、そちらで行う事になった。
本家の本妙寺は、その後の廃仏毀釈運動により、一部に損壊を受け、続いて多くのハンセン病患者の参拝に集まり、その一部は参道とその周辺に住み着く時期が続いたが、大戦が始まると朝鮮半島で奮闘した清正公にあやかって武運長久を祈る兵隊達が大勢参拝しに来る時期もあった。 大戦後は頓写会に加えて桜燈籠などのイベントに多くの市民が集まるようになり、
現在では寺院でありながら、石段には清正公に縁のある虎の狛犬とか、
浄池廟の前には立派な狛犬が寄進されるなどして、
神社の雰囲気も醸し出している。
古来、我々の周辺には名前や姿などははっきりしない神様がいらっしゃって、自然災害や病気など人の力の及ばないことについてはそれらの神様に祈りながら生きて来た。 やがて、中央集権国家が作られる頃になると、支配者側の神様であると思われる天津神と支配される側の国津神と言う分類がされるようになり、その後、インド伝来の仏教とか中国伝来の道教とか陰陽五行説に基づき日本で独自に発達した陰陽道などの影響を受けてきた。 そして明治時代になると再び支配者による国家神道というものが生まれ、第二次世界大戦を経て国家神道は廃棄され、現在に至る。 「外出自粛」で自転車に乗る時間も減ったので、これまでサイクリングの合間に撮った画像を振り返りながら、「猿田彦と庚申信仰」、「『習合』したり『分離』したり」の2回のシリーズに分けて自分なりに(といっても、ほとんどコピペだけど)まとめてみた。