今日は少し長い距離を走るつもりでいたら、早朝、小雨を降らせる雨雲が断続的にやって来ており、熊本地方気象台のHPの降雨レーダーを見ながら雨雲が通り過ぎるのを待っていたら、正午前になってしまった。
仕方ないので目的地を変更し、熊本水遺産の「味生池(あじうのいけ)」の伝説にまつわる場所を廻ることにする。 味生池は奈良時代から江戸時代の初頭まで万日山と独鈷山の間にあった溜池である。
味生池には三人の人物が深い関わりがある。 そのひとりが奈良時代の肥後国司、道君首名(みちのきみのおびとな)である。 日本では古代から中世にかけて、地方行政は国司と郡司によって行われた。 国司は中央から派遣され任期六年、郡司は在地豪族層から選出され、終身官で地方における実務を請け負っていた。 そして国司は郡司を指揮、監督して任国の統治に当たっていた。
肥後国司の中で記録に残る一番古い国司が道君首名(みちのきみのおびとな)である。 首名は青年の頃から律令を学び、大宝律令の編纂に加わった。また、新羅大使などを務め、官吏としての職務に大変明るかったという。 肥後国司として農業を奨励し、果樹、野菜、養鶏、養豚などを勧めた。規則を定め、これを守らないものを処罰したため、はじめ農民たちは反発したが、成果を出し始めると首名を崇めるようになった。
さて、前置きが長くなってしまったけれど、久しぶりのシクロクロスを駆って京塚経由で訪れたのは健軍神社。
この境内の本殿横にはいくつかの社殿が並んでいる。
そのひとつ「天社神社」は首名を祀ったものである。
健軍神社を後にして長い参道を走り電車通りに出て、味噌天神へ。
ここも首名と深い関係がある。 首名の在任当時、悪疫が流行して多くの人が亡くなった。そこで国司の首名は、疫病平癒祈願のために、現在の神藥の神として『御祖天神(みそてんじん)』を祭祀し、疫病をおさめた。
ここらで腹が減ったので、近くのインド食堂へ行ったら、あえなく満席だったので、しかたなく次へ。
銀座橋のところから白川沿いの道に入り、熊本駅の先から坪井川沿いの道に入り、上代のセブンイレブンで燃料を補給して、井芹川が坪井川に合流するところにある高橋東神社(天社宮)へ。
ここは首名を祀った神社である。
隣には幹が迫力ある「天社宮の大クスノキ」。
井芹川沿いの道を上流に向かって進むと、そこは「池の上」と呼ばれる地区で、味生池のほとりだったところ。
肥後国司として首名が行った、もうひとつの事業が灌漑用の溜池を造ったことで、万日山と独鈷山の間で、現在は井芹川が流れる一帯を貯水池として開発したと伝えられる。 味生池には悪龍が住み、龍を鎮めるために池辺寺(ちへんじ)を建てたと伝えられている。 近くにある「池の上小学校」の校舎には竜伝説に因んで、二頭の竜の姿が描かれている。
そしてこの日は「味生祭」と称してPTAのバザーが校庭で開催されていた。
龍を鎮めるために建てられた地辺寺跡の遺跡が長年をかけて発掘中だと聞いたので、ついでに行ってみる。市役所の資料によると、『百塚』と呼ばれるところに奈良時代の池辺寺の遺跡があるらしい。
池の上小学校の西側にある第一池上橋を渡って坂を上ると左側の小さな天満宮の裏に、後期・池辺寺跡。
これは奈良時代の池辺寺が荒廃した後、再興された寺院跡らしい。 さらにどんどん坂を上って行くと、万日山方面の眺望が開ける。
さらにどんどん道なりに上って行くと、西平山公園があって、そこから左折したところが池辺寺跡。
池に住む悪龍を鎮めるために建立した割には壮大なスケールで、これだけの跡地が手つかずで残っているのは極めて珍しいそうで、「国指定史跡」になっているらしい。
ただし平成27年度で整備が終了するらしく、それに向けた調査および整備の途中であるらしかった。
さてさてそんな味生池だが、加藤清正による広大な治水事業の一環で、あえなく埋め立てられる。
その後、月感上人という、この地域の僧侶の指導のもと開墾が進められ、農地が整備されたという。その月感上人の墓が万日山の中腹に残っているというので寄ってみた。 池の上線を東へ走り、西廻りバイパスを渡って100mほどして右折すると左手に月感上人の墓の入口を示す石碑がある。
ここから狭くて急な石段を上って行くと、月感上人の墓。
味生池跡地の農地の開墾に尽力したという月感上人のために今でも命日の10月には「月感上人祭」というのが毎年行われているらしい。 無くなってしまった「味生池」。現在、「味生」の地名は無くなってしまったけど、唯一、西回りバイパスが井芹川を越える橋に名前が残っている。
万日山トンネルをくぐり、
熊本駅前に出て、
白川橋を渡って白川沿いの道に入り、いつものように帰った。 本日の走行距離:35.1㎞