午前7時前にクロモリロードバイクで出発して、出水ふれあい通りを南下して、朝靄の中の朝日を眺めつつ画図の田舎道を走り、
中の瀬橋、めど町橋を渡る。
国道266号線から左折して県道313号線を南下し県道312号線に入り、さらに南下。道すがら、竹崎の六地蔵の安否確認をして、さらに南下。
小川を抜けて、道の駅竜北で珈琲ブレイクして、さらに南下して氷川を渡り、宮原からは薩摩街道を南下する。
早尾の六地蔵を過ぎて、
しばらくすると街道の脇に小さな石の祠が立っている。
天正15年(1587年)3月28日、豊臣秀吉は九州で勢力を拡大していた島津氏を討つため37カ国の兵を動員して九州に入った。
4月16日には隈本(熊本市)に到着。4月19日に氷川を渡ってしばらくすると、秀吉の愛馬「村雨」が歩けなくなった。秀吉は悲しみ、「再起不能ならばせめて一度、馬を立ち上がらせてから死なせたい」と願った。
そこで村の獣医が誠心誠意治療にあたった所、馬はそのかいあって一度は秀吉の前で立ち上がったという。
秀吉は馬を乗り換えて出発。「村雨」は死後、その付近に葬られ、慰霊のために馬頭観音が建てられ、
(馬頭観音自体はかなり新しそう)
やがて地域の人々から「馬之神」として祀られるようになった。
そこから国道3号線を渡って北西方向に走り、有佐の集落に入る所の路地に、そんなに大きくない石の祠が立っている。
中には、かなりの密な状態で「六観音」が並んでいる。
前列の左から如意輪(にょいりん)観音、聖(しょう)観音、十一面観音、後列は左から千手観音、準胝(じゅんてい)観音、そしてお目当ての馬頭観音。
この六観音はもとは「神蔵寺」というお寺にあったが、明治4年(1871年)の神仏分離令の影響で神蔵寺が廃止されたときに有佐地区の住民がもらいうけ、墓地の傍らに堂を立てて安置。その後、堂が壊れたのをきっかけに、現在地に移転されたという。
氷川町の馬頭観音ハントが終了後は近くの「はらあみどうの六地蔵」の安否確認をして、
鹿児島本線沿いの道を北上。
小川駅の先からは線路から離れて
松橋に行ってからは「堂の前の六地蔵(板碑)」の安否確認をして
県道14号線に入り北上。宇土からは国道3号線を北上して川尻からは加勢川および木部川沿いの道を西へ進む。
途中、木部六地蔵の安否確認をして中の瀬橋のところからは朝来た道を戻って帰った。
本日の走行距離:75.0㎞