昼過ぎに「熊本県民交流館パレア」で開催されるシンポジウムに参加するので、そのついでに市街地の史跡へ。
先日、熊本市博物館の特別展覧会で熊本の古い町並みの絵を見たので、その後ネットで色々と調べていたら、昭和の街並みが大きく変わった理由のひとつに「熊本大空襲」というものがあった。 大甲橋際の白川河畔に熊本大空襲の慰霊碑が建っている。
碑文によれば熊本市は昭和19年11月21日以来、度重なる空襲を受けた。なかでも、昭和20年7月1日夜から2日未明にかけてのB29による焼夷弾攻撃、そして8月10日等の空襲のため、水前寺、大江、本荘、春竹、本山、蓮台寺、八島方面、新市街、下通、水道町、安巳橋、千反畑、草葉、坪井、黒髪方面等、市内の約3分の1が消失。 この間の罹災官公庁学校は県庁、県会議事堂、県立図書館、財務局、税務署、専売局煙草工場、熊本郵便局、熊本幼稚園、白川、黒髪、壺川、池田、本荘、日吉、熊本の各国民学校、済々黌、熊本中学、市立、大江、家政、熊本工業、市立商工、薬専、熊本医大等、罹災家屋総数11,000戸、罹災者数43,000人、死者数469人、負傷者数552人という。
戦争で多くの人が命を落としたが、現在は日本人の死因の一位は「悪性新生物」、所謂「がん」である。「がん」ともなれば仕事はそっちのけで治療に専念したものであったが、最近は治療法の進歩もあって、治療を受けながら仕事を続けることを希望する人が増えてきた。
わたしめの職場でも「がん」の治療を受けながら職場に復帰した人がいる。そんな訳もあって、「熊本 治療と仕事の両立支援シンポジウム」への参加と相成った。
基調講演の後に県内4事業所での支援の取組事例が紹介され大変勉強になった。
思い起こせば十数年前、人間ドックで「腎臓がん」と宣告され、その週末に買い物に行った下通りで、街行く人たちは皆、生き続けて、自分だけ死のうとしている錯覚に襲われて、思わず叫びたくなった。
還暦過ぎても仕事と自転車を両立している幸せを噛みしめながらペダルを踏み、
帰りにインド食堂で家内と待ち合わせ、ディナーセットを堪能した。