くまもと自転車紀行

熊本市およびその周辺を走行した記録や装備・メンテなど、自転車にまつわることがらを中心としたブログです

ちらっと立田山散策

午前中、少し時間があったので、清水万国町の方から立田山へ。

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「立田山憩の森」に入り、「お祭り広場」や

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「サクラ池」を過ぎて、

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さらに坂を上がり、「龍田霊園」と「立田山墓地」を抜けて

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「春の森」を過ぎると、

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「五高の森」に入る。

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(探鳥を愉しむ一団)

そこの道端に建つ「堀内伝右衛門屋敷跡」が目に入る。

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堀内伝右衛門は細川綱利の家臣である。 元禄15年12月(伝右衛門58歳のとき)、吉良邸に討ち入って自首した旧赤穂藩士46人のうち、幕府の裁定が出るまで首領・大石内蔵助をはじめとする17人が細川家に預けられた。 この際に伝右衛門は義士たちの接待役を仰せつかり、彼らが切腹するまでの50日間、日夜その接待に全力を傾けた。 藩主細川綱利は深く之を賞し、褒美として伝右衛門が江戸勤務を追えて熊本に帰任したとき、立田に隠居用屋敷を作って下賜された。 これがその屋敷跡である。

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その後堀内一族が居住し、「堀内屋敷」と言い伝えられていた。 伝右衛門は2~3年間この屋敷に住んだと思われるが、病を得て宝永6年10月、本人の知行地である山鹿に隠居した。 伝右衛門は、後に赤穂浪士討ち入り事件の貴重な資料となる「堀内伝右衛門覚」を手録したが、享保12年8月26日、八十三才にて死去、夫妻の墓地は山鹿市の日輪時に祀られている。

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(伝衛右門夫妻の墓の傍らに建つ顕彰碑)

なお、伝右衛門は藩主綱利に懇望して、十七義士の遺髪をもらい受け、日輪寺に遺髪塔を建立し、義士たちの霊を生涯にわたり弔った。

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現在も遺髪塔は地元の方々によって守り継がれ、毎年2月4日の義士命日には「義士まつり」が行われ、遺髪塔前で慰霊祭が行われている。 堀内伝右衛門について詳しく知りたい方は以下の動画をどうぞ。

(平成22年の義士まつりの前夜祭に山鹿市・八千代座で行われた講談)

また、赤穂浪士と熊本の関わりについては過去の記事 をどうぞ。 しばらく野鳥の鳴き声に耳を澄ませ、

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立田山を後にして、竜神橋を渡って帰った。