黒髪七丁目にある「浦山横穴群」を観に行ったついでに、ロードバイクをロックして、立田山の中腹をグルっと一周するように2時間ほど散策した。
立田山は約20万年前、金峰山の外輪山(熊ノ岳など)の生成と同時期に形成され、その後の断層運動や河川の浸食により誕生したと考えられている。
古くから人間が居住していた場所で、白川が流れる南側の麓には広範囲に縄文・弥生時代からの遺跡や遺物が出土している。
濃い緑に覆われていたため黒髪山と呼ばれていたが、平安時代の歌人清原元輔(清少納言の父)が肥後へ国司として赴任したとき、この山の姿に奈良の龍田の里を偲んで名前を改めたという俗説がある。
緑深く、深山幽谷をなし、野生鳥獣の楽園だったと見え、周辺には兎とか、
鹿とか、
鶴などの鳥獣に関係する地名が散見される。
江戸時代になって、細川家は菩提寺の泰勝寺を麓に建立したこともあり、一般の者は入山厳禁となった。
当時、肥後藩内の山の管理については、各地の手永(てなが:行政区)単位で行われ、藩内の行政改革が行われた宝暦六年(1756)からは「御山支配役」という役職の者が統括して行った。「御山支配役」の部下には、山林見廻、根彿、盗伐取締、山火事防止などには、「山治」・「山ノ口」・「山横目」 ・「山番」などと呼ばれた役職者が就いた。
字留毛神社近くの、享和元年酉(1801年)十月に建立された「東の山神さん」の碑。
碑の裏には「御山支配役 古谷甚右衛門、御山治役 勝木利平次,字留毛村庄屋清四良,同村御山ノ口 孫右衛門,同村石工 和七 伊助」と記されている。
また、見つけにくい「西の山の神」の右側に立つ石碑には、
別の「立田御山支配役」の名前も刻まれている。
現在の立田山の国有林を管理しているのが森林総合研究所・九州支所で、その職員により、かつて「山神祭」が行われた旧暦の9月16日に,山仕事の安全祈願も兼ねて山神碑前で今でも「山神祭」が行なわれていると聞く。
本日の走行距離:7.0㎞ + 散策距離:4.5㎞