くまもと自転車紀行

熊本市およびその周辺を走行した記録や装備・メンテなど、自転車にまつわることがらを中心としたブログです

「木村の後に木村なし」

朝、クロモリロードバイクで職場にでかけ、ひと仕事済ませ、昼過ぎから用事があるので川尻までポタリング。 市街地を抜けて白川沿いの道を走る。

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(十禅寺付近の白川堤防:大雨の際はよろしくお願いします)

そして新幹線沿いの道を南下する。

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秋季大祭で賑わっている河尻神社を過ぎて町の目抜き通りへ。

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川尻町は鎌倉時代から加勢川河口の港町として栄え、

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加藤清正によって再整備された江戸時代以降は熊本藩の物流拠点として、

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(藩の米蔵である「御蔵」)

さらに薩摩街道の宿場町として繁栄し、明治初期には西南戦争の舞台のひとつとなった。

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(西郷隆盛が宿泊した旅館跡)

また、室町時代末期からの歴史を誇る刃物製造や

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醸造といった伝統産業は現在も継承されており、市民に親しまれている。

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近年は町おこしの一環として和菓子の製造にも力を入れている。

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そんな川尻出身の著名人のひとりに木村政彦がいる。

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木村 政彦(きむら まさひこ、1917年(大正6年)9月10日 - 1993年(平成5年)4月18日)は、日本の柔道家・プロレスラー。段位は講道館柔道七段。荒々しい柔道スタイルから「鬼の木村」の異名を持つ。 全日本選手権13年連続保持、天覧試合優勝も含め、15年間不敗のまま引退。「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」と讃えられ、現在においても史上最強の柔道家と称されることが多い。 木村は大正6年9月10日、飽託郡川尻町で4人兄弟の末っ子として生まれた。家業は砂利採取業で、加勢川での砂利採りや砂利上げを手伝ううちに、のちに柔道に必要な基礎体力をつけて行った。 柔道を始めたきっかけは、小学生の時の担任教師に怒られ投げられた事に対し復讐を果たすためであった。

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(小学生の木村が通った道場跡)

町の柔道場に熱心に通った木村少年は昭和6年尋常高等小学校2年の時に県児童相撲大会で見事優勝し全九州相撲大会を準優勝。これを見た柔道教師にスカウトされ鎮西中学校(現・鎮西高校)に入学。 猛練習で頭角を現し、全国に名の通る柔道選手となった。拓殖大学に入学後は「人の三倍努力」を目標に、

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1日10時間と言う豊富な練習量に加え、精神的にも強く、「負けたら切腹する覚悟」で試合に臨んだと言われる。 身長170㎝、体重85キロと柔道家としては決して恵まれてはいない体格ながら強靭な足腰から繰り出す大外刈りを得意技とし、

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「キムラロック」と呼ばれる関節技は強烈で多くの脱臼者を出したために遂には禁じ手となるほどであった。

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史上最強と称された不世出の柔道家となった木村ではあったが、その後参入した国際柔道協会「プロ柔道」の経営不振や、プロレス入り後の物議をかもした力道山との試合など、一時不遇な時期も過ごした。

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昭和36年には拓殖大学柔道部監督として柔道界に復帰。その数年後に全日本学生柔道大会において見事優勝に導き、後進をを育てた。平成5年4月18日死去、享年75歳。 川尻の大慈禅寺の墓地には、

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立派な墓石が建てられている。

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ちなみに、その近くにも「木村家」のたいそう立派なお墓があるけど、こちらは「木村のあられ」の創業者のお墓であった。

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川尻からはいつものように加勢川沿いに東へ進んで帰った。

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本日の走行距離:43.3㎞

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