くまもと自転車紀行

熊本市およびその周辺を走行した記録や装備・メンテなど、自転車にまつわることがらを中心としたブログです

岳林寺を経由して金峰山

この数か月、長い坂をほとんど上ってないので土曜の午前中の仕事が終わって昼飯を済ませて金峰山へ。 往路はいつものように島崎から鎌研坂を目指すが、上りが始まってまもなく、何と右足の土踏まずの付近がピキっと攣りそうになったので早速ドーピングをして、

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その先にある岳林寺で休憩。

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ここでは、いつも山門の仁王さんに睨まれるので、

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これまで境内に入ったことがなかったけれど、そこには、かつての隈本城主・城親賢(じょう-ちかかた)の墓があった。

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そこに立てられた標柱の案内文に加筆して解説すると・・・ 鹿子木氏の後を継いで隈本城主となっていた城親冬が隠居すると、家督を継いだ城親賢(じょう-ちかかた)が隈本城主となったのが1558年。

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(現在の第一高校の一帯にあった隈本城は「古城」とも呼ばれる)

この頃の肥後の国は豊後の大友氏、薩摩の島津氏、肥前の造龍寺氏に囲まれた「草刈り場」となっていた。

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城親賢は、岳林寺を再建するなど、荒れ果てた肥後の国の整備に力を注ぎ、領民には植樹を奨励した。 この際、京より庭師を招き「植木市」を興行するなどして産業育成を図り、これが現在の熊本市の「春の植木市」の始まりとされている。

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そんな城親賢だったが、1578年、耳川の戦いで大友宗麟が島津義久に大敗すると、肥後への影響力が変わり、1579年、親賢は宇土城主・名和顕孝らとともに島津家に臣従。 その後、城親賢は1580年には島津勢として、甲斐宗運と世安付近の白川の「旦過の瀬」で戦うも敗退。

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1582年には、肥前の龍造寺隆信の肥後侵攻を許して、龍造寺家に降伏すると、まもなく病没したと伝えられる。 当初、金峰山の山腹に置かれた親賢の墓を、ここ岳林寺に移設し、例年、植木市の始まる1月20日前後には、ここで墓前祭が行われている、とのこと。 さて、境内で5分ほど休憩すると薬も効いたらしいので、恐る恐る鎌研坂を上り、

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峠の茶屋でも休憩して、

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念のため大将陣でも休憩して、

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登山道を上り、

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何とか山頂へ。

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生憎、少しモヤがかかっていたけど、島原方面、

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および阿蘇方面の眺望を堪能。

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流石に山頂からの下りは寒そうなのでウィンドブレーカーを羽織って下山道を下り、峠の茶屋からは県道1号線を下り、明午橋を渡って帰った。

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本日の走行距離:33.3㎞

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