ゆうかファミリーロードを植木方面へ走り、県道31号線を横断すると左手の丘の上に見えてくる「寂心さんの樟」。
最初は楽で、後で段々きつくなる坂を上ると、その大きくて優しい姿に、ついつい脚を留めて眺めてしまう。
この樟の名の「寂心さん」というのは、戦国時代にこの付近を領した武将・鹿子木親員(かなこぎちかかず)の事である。
鹿子木氏の祖は、源頼朝の命により肥後国飽田郡にあった「鹿子木荘」という荘園の地頭となった三池貞教まで遡る。
貞教はこの地に赴いたのちに「鹿子木」の姓を名乗り、その後代々、肥後菊池家に仕えたが、親員はその10代目であり、領地内の楠原城
を本拠地として、飽田・託摩・玉名・山本の4郡560町を治めていた。 親員は文武両道に優れ、「肥後国の老者」と称えられた人物であり、菊池家の命により楠原城から千葉城へと移り、
その後、茶臼山の南西部の一角の、現在の第一高校と熊本医療センターがある辺りに
新たな城「隈本城」(加藤清正の熊本城に対して「古城」と呼ばれる)
を築いた。
さらに金峰山の南、上代の丘に
出城を築いた。
その出城の山は現在「城山(じょうやま)」と呼ばれ、築城当時、守り神として京都の伏見稲荷神社の御分霊を勧請した神社が現在の高橋稲荷となっている。
寺社の復興や造営に熱心な親員は藤崎八旛宮の造営に着手し、天文11年(1542)に後奈良天皇より勅額を下賜された。 その勅額の文字には通常の「八幡」の「幡」ではなく、「旛」の字が使われている。これにより全国の「八幡宮」の中で、藤崎八旛宮だけが「旛」の字が使われるようになった。
親員は長じて入道し、「寂心」を名乗るようになり、多くの和歌を作り、謡曲の作成にも当たった。
死後、彼が植えた樟の近くに埋葬され、墓石が置かれたが、樟は大きく成長して、やがて寂心の墓石をその根の中に巻き込むような形になった。
そのため地元の人々は樟を「寂心さんの樟」と呼ぶようになり、憩いの場として親しんだ。
『巨樹・巨木をたずねて』の著者でカメラマンの高橋弘は、「私が自信を持ってお勧めする最高の1本」と記し、「これだけのクスノキが国指定天然記念物の指定を受けていないのは、まことに不思議なことである」と高い評価を与えた。
「寂心さんの樟」は今日も台地に太く広く根を張り、
枝をいっぱいに広げて爽やかな木陰を作り出していた。
今朝は雨上がりの午前7時過ぎから、藤崎八旛宮、千葉城、隈本城、高橋稲荷、上代城址、寂心さんの樟、楠原城址の順で43.7㎞を走った。 ちなみに、今回も本文の多くはWikipediaはじめネットから引用。