くまもと自転車紀行

熊本市およびその周辺を走行した記録や装備・メンテなど、自転車にまつわることがらを中心としたブログです

甲斐宗運の足跡を巡る(前編)

今日は秋雨の合間に、午前中は熊本市内、その後、用事を済ませて昼から豊野、御船の史跡を廻ったので、これまでのサイクリングの合間に撮り貯めた画像も加え、2回に分けてレポート。
熊本の中世の歴史を振り返る時、加藤清正の存在があまりにも強烈な光を放っており、それ以前の多くの武将はその陰に入ってしまい、印象が薄くなってしまう。
画像
そんな中、記憶に残る戦国時代の肥後の軍師のひとりが甲斐宗運(親直:ちかなお)である。
画像
阿蘇家の筆頭家老であった甲斐親信(ちかのぶ)の嫡男として生まれ、阿蘇惟豊(ただとよ)に仕えた。
画像
(阿蘇惟豊は甲斐親宣の支援を受け阿蘇氏の本拠地・矢部を奪還し浜の館に入った)
宗運が20歳の時には、阿蘇家に謀反を企てた御船行房を攻め、
画像
(御船攻めの戦勝祈願で宗運が訪れたのが矢部・浜町の「小一領神社」)
この時の功績が認められて御船城主となり生涯この城を本拠地とした。
画像
(御船城址は現在「城山公園」として整備され、桜の名所にもなっている)
画像
生涯60戦無敗の「負けなしの武将」と言われた宗運の、戦いのひとつを紹介する。
肥前の龍造寺、豊後の大友、薩摩の島津の争いに巻き込まれた当時の肥後。
画像
阿蘇家は、外にあっては大友氏と、内では相良氏と同盟を結んで安定を保っていた。
鹿子木寂心が去った後に隈本城の城主になっていた菊池一族の城親賢は、耳川で敗れ弱体化した大友氏に見切りをつけ、名和氏など反大友氏勢力を結集し、大友氏寄りの阿蘇氏を討とうとした。当時の流通の拠点であり、阿蘇氏が支配していた川尻の奪還を狙ったとも言われる。
天正八年(1580)、白川を挟んで現在の世安町側に甲斐軍(甲斐宗運と嫡男・甲斐親英(甲斐宗立))、二本木側に城氏をはじめとする肥後中部の連合軍が布陣した。
画像
画像
この付近は古くから白川の渡河地点で、「旦過(たんが)の瀬」と呼ばれていた。
画像
名前の由来は対岸の「無漏寺(むろうじ)」で行脚僧に一夜の宿を供(旦過接待)したことによる。
画像
白川の左岸に陣を敷いた甲斐軍は対岸の連合軍を挑発し、敵が白川に馬を乗り入れると、緑川で訓練した兵が川の中で襲いかかり、岸に登った軍には矢部や阿蘇の騎馬部隊が襲いかかり大勝利を得た。
肥後の戦国時代の一齣(ひとこま)である。(現地の標柱の解説文より)
甲斐宗運は、その後もひたむきに阿蘇家を支えて行く・・・・(後編に続く)。