くまもと自転車紀行

熊本市およびその周辺を走行した記録や装備・メンテなど、自転車にまつわることがらを中心としたブログです

甲斐宗運の足跡を巡る(後編)

阿蘇氏への忠節を貫く甲斐宗運は、宗家の施策に従わない者に対しては容赦なく粛清した。
それは我が子でも例外でなく、二男、三男を誅殺し、四男を追放した。
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(御船城址の一角には天満宮が建てられ、宗運が合祀されている)
これに反発した嫡男・親英が宗運の暗殺を企てたことが露見し、これも誅殺しようとしたが、家臣たちの嘆願により思いとどまったと言われている。
天正9年(1581年)春、甲斐宗運は、勢力の衰えた大友氏に見切りを付け、肥前の龍造寺氏に、一族連名の起請文を送り、人質を出した。
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(龍造寺隆信)
同年9月、薩摩の島津義久は、出水を本営として、芦北に侵攻した。
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(島津義久)
八代・芦北・球磨の三郡を支配していた相良義陽(よしひ)は、これを迎え撃つも、島津の大軍に水俣を囲まれ、芦北郡の割譲して和平した。
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(相良家第18代当主・相良義陽)
島津義久は相良義陽に対して、降伏の証しに阿蘇氏攻撃の先鋒を務めるように要求した。
こうして義陽は、誓詞を交わした盟友でもあった御船城主甲斐宗運と戦わざるを得なくなった。
同年12月2日、相良義陽は、8000の兵を率いて、八代を出発し娑婆神峠を越えて攻め入り、
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甲斐氏の出城である堅志田(かたしだ)城などを攻め落とし、響ヶ原(宇城市豊野町)に陣取って祝宴をあげていた。
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(響ケ原古戦場)
御船城を出た甲斐宗運の軍勢は密かに進軍して濃霧に包まれた響ヶ原の本陣を背後から奇襲し、相良軍を撃破した。相良勢は、義陽以下多数の戦死者(約300名)を出した。
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(古戦場の一角に相良神社が建てられている)
盟友であった甲斐宗運と、島津氏との間で板挟みとなっていた相良義陽にとって覚悟の戦死であったようで、退却することなく、床几に座したまま討ち取られたという。
時に、義陽は38歳の若さだった。義陽の骸はこの場所に葬られ、
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(その場所には「相良堂」が建てられていたが震災で崩壊)
首は宗運の首実検の後に返され、
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(平成音楽大学近くの、首実検が行われた場所には「相良塚」が建っている)
八代に運ばれ葬られた。
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(八代市麓にある義陽の墓には現在立ち入ることは、かなり困難)
以降、宗運は外交的駆け引きにより島津・龍造寺の二大勢力の間で阿蘇氏の命脈を保つことに腐心した。
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そして天正11年(1583年)7月5日に病死(孫娘による毒殺説も)。享年75歳であった。
甲斐宗運の菩提寺である東禅寺の裏山には、
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宗運夫婦の慰霊塔が仲良く並んでいる。
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エピローグ
宗運の家督を継いだ甲斐親英は父の遺言を守らず、島津氏を攻め、反撃を受けて降伏し和平交渉中に捕らえられ八代へ連行された。
やがて肥後は島津氏によって平定されたが、ほどなく豊臣秀吉の九州征伐によって島津氏は薩摩に戻され、親英は旧領の御船を回復した。
しかし肥後の領主として派遣された佐々成政の施策に肥後の国人衆は反発し、天正15年(1587年)8月に肥後国人一揆が勃発。親英はこれに大将として参加して、隈本城を3万5千の国衆で攻撃して落城寸前まで攻め込むが撃退された。結局、反乱は鎮圧され、親英は六ヶ所村(嘉島町上六嘉)へ逃げた。
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手足に重傷を負った親英が地元の住民に手厚い看護を受け、「このお礼に死んだあとはこの地で、手足の病の守り神となろう」と言い残して死んだという逸話がもとになって足手荒神の信仰が始まったとされている。
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(この鳥居は地震で倒れてしまった)
一方、宗運に支えられた阿蘇惟豊の時に最盛期を迎えた阿蘇家だったが、その後、有力者が相次いで歿し急速に弱体化し、阿蘇惟光の時には侵攻した島津氏により矢部を追われた。その後、秀吉に反旗を翻したと疑いを架けられ、惟光は12歳で花岡山で自害させられた。
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(花岡山の中腹には、幼くして絶命した惟光を偲んで「阿蘇殿松」が植えられていた)
こうして絶滅の危機に瀕した阿蘇家であったが、その後、肥後国主となった加藤清正によって、一の宮・阿蘇神社の大宮司職は惟光の弟・阿蘇惟善が復帰し、阿蘇家は現在に続いている(現在の大宮司は第92代の阿蘇治隆氏)。
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(震災前の阿蘇神社本殿)