未明からの冷たい雨が上がって昼過ぎには晴れ間も出て来たので少しだけサイクリング。
太甲橋の所から白川左岸の道に入って、
気持ちよく西へ走る。
小島大橋を渡って、恵比寿像があちこちにある小島の街並みを散策し、
帰り道に花岡山へ。
山頂にある法妙寺の一角に仏像が沢山並んでいるのが見えたので行ってみると、
観音様が40基ほど並んでいる中に、馬頭観音を1基だけ発見!
さて、見どころ満載の花岡山の中で本日訪れたのは、明治維新の動乱期に殉じた肥後藩士を祀るために造られた「花岡山招魂社」の東側にある「阿蘇殿松跡」。
この地でわずか12年の生涯を閉じたのが、阿蘇惟光(これみつ:天正10年(1582年) - 文禄2年8月18日(1593年9月13日))である。
古代から続く阿蘇神社の宮司であった阿蘇家は戦国時代には有力な豪族となっていて、阿蘇から矢部に拠点を移していた。
阿蘇惟光は、現在の矢部高校の敷地にあった居館「浜の館」の主であった父・阿蘇惟種の死を受けて阿蘇家の当主となった。
しかし当時、3歳という幼年のうえ、翌年には絶対的な家臣・甲斐宗運が死去すると、
間もなく島津義久の侵攻を受け、降伏。まもなく母親に連れられて弟の惟善とともに山深い目丸地区に逃亡した。
勢力を拡大する島津に対して九州征伐に来た豊臣秀吉に保護を求め、惟光は佐々成政、次いで加藤清正にその身柄を預けられた。
わずかながら領地も与えられるが1593年、島津家の家臣・梅北国兼が佐敷城を占拠した「梅北一揆」が起こると、
惟光もこれに結託したと秀吉に疑われ、花岡山のこの地にて斬首された。清正は朝鮮征伐に行っており、留守の間だった。
近くの細工町にある「阿弥陀寺」には、
惟光の墓が残されている。
惟光の最期を知った加藤清正は、秀吉の没後、関ヶ原の戦が終わって、惟光の弟・惟善(これよし)を宮司職に復帰させた。こうして阿蘇家は復興して今に続いていて、現在の宮司は第92代の阿蘇惟邑(これくに)氏。
ちなみに、神話の時代から家系が続いているのは、天皇家と出雲神社と、この阿蘇神社の三家のみ、と言われている。
細工町の阿弥陀寺からは白川右岸の道に入って帰った。
本日の走行距離:32.9km