昨日九州に上陸して熱帯低気圧になった台風4号の影響で、「くもり、ところによってにわか雨」の予報の元、宇城市豊福、八代市古麓(ふるふもと)、宇土市神馬町・椿原町にある、名和氏所縁の土地を見て廻った。
(宇土市神馬町西岡台の「中世宇土城跡」から)
というのも、8年ほど前からの自転車仲間の「ナワさん」は、確か長野県の出身で、5年ほど前に転勤で熊本を離れた後も、時間を見つけては熊本を走りに見えているけど、「熊本にいる間に名和氏の所縁の土地を廻れば良かった・・・」というような事を言っておられた。
それならば、と肥後の戦国時代によく登場する名和氏の所縁の土地を色々と調べて、いつか廻ろうと思っていて、すっかり忘れていたが、先日、自転車くまさんが宇土にある名和氏の菩提寺をレポートしておられたの見て思い出したのだ。
という事で、本日廻って撮って来た画像を基に話を進めると・・・。
名和氏は元々、伯耆国(ほうきのくに:現在の鳥取県東部)を拠点として海運など商業経済に通じて富を築き上げて勢力を張った豪族。
(家紋は帆掛け船)
鎌倉末期に後醍醐天皇に仕え、「建武の新政」の武功により得た八代に移り住んだのが正平13年(1358年)であった。
(後醍醐天皇(左) VS 足利尊氏(右))
八代(当時は「八代荘」)の地頭職となった当主・名和顕興(あきおき)は八代の南東の丘陵地帯の峰のひとつに城を築いた。
その山麓である古麓は、北の妙見宮の門前町と隣接しており、城下町として栄えた。
名和氏は、その古麓城を居城として約150年にわたり八代を中心として勢力を伸ばした。
古麓稲荷神社は、古麓城の鎮守として城内に勧進されたものが、
春光寺の落成の際に頂上から現在の地に移されたと言われている。
古麓城の南の谷間には、名和氏の氏神を祀る「鰾(にべ)神社」がひっそりと鎮座している。
「鰾」は魚の浮袋のことで、正式には「にべ」という読み方はない。
「にべ」というのはスズキ目の魚のことで、「イシモチ」とも呼ばれる。
「鰾神社」がどうして「にべじんじゃ」と呼ばれるのかは、次のような逸話による。
領内の漁師が献上したニベ(鮸、イシモチ)という魚の浮き袋(鰾)から、名和氏の家系図が出てきたということから、この神社が創建された。
文亀4年(1504年)、名和顕忠(あきただ)は居城の古麓城を人吉の相良氏に攻められて八代の地を離れた。
主が相良氏となった古麓城の城下はその後も栄えた。
一方、八代を後にした名和顕忠は富合の木原城に逃れた後、同年、宇土の轟水源の東側の「西岡台」に築かれた宇土城に入城した。
その後80年にわたり宇土を治めたが、その間、宿敵の相良氏とは、交通の要所に建つ豊福城を巡って熾烈な争いを繰り広げ、
80年間に8度もその領有権が名和氏と相良氏の間で行き来することとなる。
天正15年(1587年)、豊臣秀吉の九州平定によって当主・名和顕孝(あきたか)は宇土城を開城した。そして秀吉の命により顕孝は筑前の小早川家の家臣となり肥後の国を離れた。
その名和顕孝は、宇土名物「小袖餅」の逸話に登場する、餅代の代わりに小袖を差し出す「殿様」としても有名で、
また、当時、竹崎季長の「蒙古襲来絵詞」を所有していて、顕孝の娘が大矢野城主・大矢野種基と結婚する際にその嫁入り道具としてこの絵巻物を贈っている。
中世宇土城の北の椿原集落に名和氏の菩提寺である宗福寺の跡がある。
現在、集落の人たちが管理しており、
お堂には,名和武顕及び行興の位牌が収められており、墓地には名和行直の墓が立ち、往時を偲んでいる。
宇土に来たついでに神合の古代ハス園を再訪。前回と打って変わって多くの花が咲き誇っていた。
少し前に宇土から富合にかけて通り雨が降ったらしく、所々に水たまりのできた道路を走って帰った。
本日の走行距離:98.3㎞