くまもと自転車紀行

熊本市およびその周辺を走行した記録や装備・メンテなど、自転車にまつわることがらを中心としたブログです

野出の峠と後藤是山

今日も猛暑日の予報につき、朝6時前に自宅をクロモリロードバイクで出発し、鎌研坂を上って、県道1号線に合流し、「峠の茶屋」のある鳥越峠を越える。

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そのまま県道1号線を下り、再び上って野出(のいで)の峠方面へ右折するつもりだったけど、今日は島原半島が見えそうなので、先に進んで「ナルシストの椅子」で普賢岳の眺めを5分ほど楽しむ。

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道を戻って左折し、野出の峠へ上がると、そこにも「峠の茶屋」の文字。

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夏目漱石の小説「草枕」に登場する「峠の茶屋」は一般的に、鳥越峠にあったものと思われている。

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(鳥越峠に現在数軒ある茶店の上の段に「峠の茶屋跡」の石碑が立っている)

わたしなんか、小学校の頃から、つい10年ほど前まで、四つ角の店が「峠の茶屋」だとばかり思っていた。

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ところが、鳥越峠の「峠の茶屋」に異論を唱えたのが、後藤是山(ぜざん)という人である。 彼は長年の調査の結果、野出の峠にあった茶屋こそが「草枕」に登場する「峠の茶屋」であると断定した。 駐車場から急な坂を登ると普賢岳が良く見える公園があり、その入り口に

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彼の自筆による石碑が立てられていた。

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(「草枕 峠の茶屋跡」と彫られている)

「後藤是山」については、昨年の秋、熊本市内にある堅山南風の作品を見て廻った時に、水前寺の住宅街に「後藤是山記念館」なるものがあることを知ったが、その時は、震災の影響で中に入ることができなかった。 その後、復旧工事が終了し今年の2月からオープンしているので、野出峠から一旦自宅へ帰り、街乗りの格好に着替えて、わが家から自転車で10分足らずの「後藤是山記念館」へ。

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後藤是山は明治19(1886)年に大分県久住町に生まれた。

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当時、久住町肥後藩の飛び領で、彼には自分が「肥後人」だとの自覚があったという。 継母の看病のために早稲田大学を中退し、小学校教師を経て九州日日新聞社(現・熊本日日新聞)に入社。翌年から国民新聞社(東京)に出向した是山は、徳富蘇峰から直接指導を受けるとともに、徳富蘆花や当時の著名な文化人達の感化を受けた。

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(一番左が是山で、隣が与謝野晶子なのは判りますが、他は・・・)

熊本に帰り編集を任せられるようになった是山は文芸欄の拡充に努力し、東京で知り合った著名な俳人歌人・画家達を紙面に登場させ、人々の目を見張る紙面をつくった。

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(堅山南風画)

九州日日新聞を退職後も熊本の文化の発展のために身を尽くし、熊本市の名誉市民に賞された ・・・と言われても、昭和31年に生まれ、あんまり文化的な生活を送ってこなかったわたしにとっては、心動かされるエピソードは少なかったが、前述の「野出の峠」以外にふたつ、印象に残ったことがあった。 ひとつめは、阿蘇の「大観峰」。

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阿蘇では、外輪山から内側につき出した岬状の突出のことを「鼻」と呼ぶが、「大観峰」のところは地元では「遠見ケ鼻」と呼んでいた。

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(田子山(たんごやま)から望む「遠見ケ鼻」)

大正11年(1922)、この「遠見ヶ鼻」に登った徳富蘇峰が「大観峰」と名付けたのは有名なエピソードだが、その時に案内したのは是山だった。

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大正11年阿蘇、左が蘇峰、右が是山)

もうひとつは、是山は、現在でも郷土史を学ぶ人の必読書となっている「肥後国誌」の編集編纂に取り組み、

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さらには幕末の肥後の勤王家から神風連の乱までを記述した「肥後の勤王」という本を著しているが、この本は以前、神風連の勉強をした時、色んな人が引用している本であった。

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史料館の横に建つ是山の旧居は良く保存されており、

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その中にも色々な展示があった。

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またその庭は木々が多く、苔むして風情があり、

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蝉時雨の中で時がゆっくり流れていたが、やがて汗が噴き出してきたので10時過ぎには記念館を後にした。

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本日の走行距離:47.2㎞

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