今年の2月半ば、NHK-BSの「新日本風土記」は豊穣の不知火海と、そしてその悲しい歴史を伝えていた。
中でも、昨年2月に亡くなった作家・石牟礼道子さんの映像は深く胸に刺さるものがあった。
誠に恥ずかしながら彼女の作品は読んだことがなかったので、この際、彼女の代表作を2冊読んで、その中に出てくる場所をいくつか廻ってみることにした。
朝の用事を終え、旅行で不在の家内の電気自動車にロードバイクを積んで丁度1時間ほど高速を走り、
昨年から何度も訪れている「エコパーク水俣」へ。
4時間ほど市内を廻る予定なので、公園内にある「道の駅 みなまた」のカウンターで手続きをして、普通充電用200Vの充電器にケーブルを繋いでサイクリングを開始。
まずはパーク内にある「竹林園」に隣接する「百間排水口」へ。
ここはまさに「水俣病の爆心地」とでも言うべきところである。 チッソ水俣工場の「百間排水口」からは、かつて1932年から政府が公害に認定する1968年まで、ビニールなどの原料となるアセトアルデヒドの製造工程で副生されたメチル水銀化合物が排出されていた。
すぐ近くには、「新潟水俣病」の起こった阿賀野川の石で作られた地蔵が寄贈されている。
水俣では江戸時代から海岸一帯で製塩業が行われ、現在でも製塩にまつわる地名が残っている。
しかし、明治30年代になって塩が専売となり、国の方針により生産性の低い塩田は閉鎖されることになり、水俣の製塩も廃業となってしまった。 その塩田の跡地に建てられたのが「日本窒素肥料(後のチッソ)」の工場であった。
特に戦後の高度成長期にチッソが巨大化するとともに企業の城下町として水俣は栄えたが、一方では言葉に尽くせない大きな負の遺産を残してしまった。
百間排水口から流れ出た有機水銀に汚染された大量の魚やヘドロをドラム缶につめて埋めた58ヘクタールの水俣湾埋立地は、現在、「エコパーク水俣」となり、
「道の駅 みなまた」をはじめ、竹林園、バラ園などの他、スポーツ施設が広がり、岬の近くの丘には熊本県環境センター、水俣市立水俣病史料館、国立水俣病情報センターが建てられ、
水俣病を中心とした環境問題について知識を深めることができる。
そして公園の水俣湾に面する一帯は親水護岸として整備され、水俣を象徴するモニュメントが平和を象徴し、
慰霊碑の周辺には
悲しい水俣病の出来事を多くの人に伝えていくことを目的にした「本願の会」(1994年3月発足)のメンバーが制作した「魂石」と呼ばれる石仏50体ほどが海に向かって置かれている。
その一体の「魂石」の背面に、石牟礼道子氏の句が彫られていた。
この後、劇症型の患者の多発した海岸沿いの月浦、
湯堂、
茂道
などの漁村を巡って「苦海浄土」の内容を反芻。 また、「椿の海の記」に載っていた、「永代橋」の跡碑、
石牟礼道子氏の幼少期を過ごした「とんとん村」のあった猿郷地区、
石牟礼道子氏が父親に背負われた記憶の大崎鼻公園などを廻り、
幼い頃の石牟礼道子さんと当時の水俣の風景に思いを巡らせた。 水俣の海は何事もなかったように碧く澄んでいたが、
水俣の人たち、そして私たちには今なお深く傷を残しているように感じた。
本日の走行距離:27.0㎞
今回の参考動画: 日本人は何をめざしてきたのか 知の巨人たち 第6回 石牟礼道子