くまもと自転車紀行

熊本市およびその周辺を走行した記録や装備・メンテなど、自転車にまつわることがらを中心としたブログです

神風連の史跡を巡る

きっかけは一年余り前、熊本水遺産のひとつ、『鳴岩の湧水』を訪れた時、そのすぐ近くに白い標柱が立っており、『神風連五士自刃の跡』とあった。 『神風連』・・・「西南の役に前後して熊本の旧・士族が起こした反乱」というくらいの知識しか持ち合わせていなかったが、そこで自刃したという五人の事が心に残っていた。 今年の夏、テニス仲間(最近めっきりご無沙汰だけど)のセッキー2号さんのブログで、熊本城周辺の神風連の史跡を巡った記事が紹介された。 それを機に神風連の事を調べてみて、その史跡を巡りたくなり、先日の宇土半島に続き、昨日、熊本市内の史跡をサイクリングがてら、廻ってきた。 行った順に説明すると話がまとまらないので、編集して・・・。 江戸末期、肥後藩では、教育方針をめぐって三つの派閥に分かれていた。 藩校での朱子学教育を中心とする学校党、横井小楠らが提唱した教育と政治の結びつきを重視する実学党、そして林桜園を祖とする国学・神道を基本とした教育を重視する勤皇党(河上彦斎・太田黒伴雄・加屋霽堅ら)である。 国学者・林桜園が千葉城の一角に開いた私塾・原道館の跡が、NHK熊本の下の『千葉城公園』に残っている。

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維新の後、勤皇党のうち、明治政府の文明開化への強い不満を抱く構成員により、敬神党が結成された。 この敬神党は、神道の信仰心が非常に強かったため、周囲からは「神風連」と呼ばれていた。神風連の構成員は、多くが神職に就いており、首領・大田黒伴雄が神職を務めたのが、南区内田町の新開大神宮。

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ここで「宇気比」(うけい)と呼ばれる誓約祈祷を行った。

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明治9年(1876年)3月の「帯刀禁止令」、6月の熊本県布達「散髪令」に憤激し、同年10月23日に行われた「宇気比」の結果、神託のままに挙兵を決意。 翌10月24日夜、太田黒伴雄(おおたぐろともお)や加屋霽堅(かやはるかた)らに率いられた神風連170人余りは、熊本城内の藤崎八旛宮(現・護国神社)

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に集合し出陣。

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一部は鎮台司令長官・種田政明や連隊長・与倉知実、県令・安岡良亮らを襲撃して、多くの官憲を殺傷。 ちなみに、斬殺された鎮台司令長官・種田政明はその時、新屋敷の私邸で、東京から連れてきた愛妾と同衾中であった。

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この時、難を逃れた愛妾・小勝が東京の父宛に打った「ダンナハイケナイ ワタシハテキズ」の電文は当時の新聞に載り、後に都々逸にもなって、小勝の名前は全国に広まったとか。 また、種田邸への襲撃は近くに住んでいた、少年期の徳富盧花の気づくところとなり、彼の作品『恐ろしき一夜』で事件の様子が描かれている。実際に行ってみると、種田司令長官の旧居跡とから徳富記念園

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まで100m程の距離しかない。

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さて、一方、神風連の別部隊は、現在の城彩苑~合同庁舎にあった砲兵営を制圧。また、他の隊は現在の二の丸駐車場の入り口近くから

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二の丸の歩兵営を襲い、これを全焼させ鎮台側を大混乱に陥れた。 神風連の首領・大田黒伴雄も奮闘する。

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しかし与倉知実・歩兵第13連隊長が、要人襲撃の難を逃れ(この時、神風連に軍旗を奪われる)戦場に現れると、鎮台兵は落ち着きを取り戻し反撃を開始。

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二の丸では激戦が繰り広げられた。 鎮台兵は、神風連に奪われた軍旗を奪還。写真は『軍旗奪還之跡』の石碑。

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再び神風連に奪われるのを防ぐため佐武広命中尉は軍旗を腹に巻いて奮闘中に負傷、中尉の鮮血が染みたため「血染めの軍旗」と呼ばれたという。

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神風連の加屋・斎藤らは銃撃を受け死亡。

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首領の太田黒も銃撃を受けて重傷を負い、付近の民家に避難したのち自刃した。

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指導者を失ったことで、他の者も退却し、多くが自宅で自刃した。何名かは逃亡・潜伏し再興を謀ろうとしたが、困難と悟り自刃した。 宇土半島の最高峰・大岳の山頂に神風連六烈士自刃之跡の碑がある。

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三角方面へ逃げ延びた六名の神風連烈士は 同志・甲斐武雄を訪ねて現・宇城市三角町郡浦(こうのうら)の郡浦神社へ。

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しかし、追っ手が迫り、もはや再挙の望みがないことを悟って、10月29日、大岳山頂に登って自刃した。

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挙兵した約170名の神風連のうち、戦死28人、自刃86人を出し、残った者もほとんどが捕らえられた。この乱はあらかじめ各地の同士に伝えられており、10月27日には秋月の乱、同28日には萩の乱が勃発。そして翌年の西南の役へ大きな影響を与えた。 当初、神風連は『国賊』とされたが、その後、遺族の嘆願などもあり大正時代には汚名も雪がれ、熊本市黒髪の桜山神社

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に123基の石碑が建てられた。

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その中には、この一件で全員が死亡した小篠四兄弟の末弟・源三が飼っていた愛犬・とらの墓もある。

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とらは主人・源三が18歳の若さで自刃して以来、食事を摂らなくなり、死んでしまったらしい。 神風連の石碑群の奥には、彼等に影響を与えた林桜園やその教えを受けた宮部鼎三ら肥後勤王党関係の墓碑も彼等を見守るかのように建っている。

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また、桜山神社の境内の一角には『神風連資料館』が建てられており、多くの資料を展示し、彼等の行動、精神を今の世に伝えている。

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最後に訪れたのは、今回の史跡巡りのきっかけとなった、鳴岩の湧水近くの『神風連五士自刃の跡』。

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標柱も石碑も新しくなっていた。 国の行く末を案じて兵を挙げ死ぬことを選んだ彼等に想いを馳せた。