くまもと自転車紀行

熊本市およびその周辺を走行した記録や装備・メンテなど、自転車にまつわることがらを中心としたブログです

「剣心」のモデルでござるよ

以前、新町をポタリングした時、一新小学校の横の標柱に見知らぬ名前を眼にした。

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その標柱によれば、河上彦斎(かわかみげんさい)は天保5年(1834)年11月25日、新馬借町で藩士・小森貞助、和歌の次男として誕生。 11歳で谷尾崎の河上彦兵衛の養子になり16歳で花畑邸の御掃除坊主として出仕。 ちなみに、「花畑邸」とは、加藤清正以来、肥後藩主の住まいで、現在の花畑公園から北へ熊本市役所前までが広大な屋敷。

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明治4年頃の写真で、今の交通センター前から本丸方面に向かって右側が花畑邸)
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(花畑公園には「花畑邸」の庭園の絵が展示されている)

その間、彦斎は、皇学思想を林桜園に、

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(神風連史料館に展示の掛け軸)

文と剣を轟武兵衛に、

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Wikipediaより)

兵学宮部鼎蔵に学び、

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宮部鼎蔵の出身地、御船町上野の「鼎春園」にある銅像

才能が認められ士分となる。 その後、細川藩主の親兵となり上京。長州では高杉晋作を助けて戦う。 公武合体・開国説を唱える佐幕派佐久間象山に憤慨しこれを斬った。

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(斬られた佐久間象山。この後、彦斎は人斬りを止めたらしい。)

維新後、新政府の招聘を拒否し、肥後藩飛び領の鶴崎に造られた「有終館」の兵長を務めたが、

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(「九州横断サイクリング」の際、ここへは偶然来ていた!)

長州兵を匿った容疑で捕らえられ、明治4年12月4日、東京の小伝馬町で斬刑に処せられた。享年38歳。

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・・・以上が地元熊本での評価であるが、全国の評価となると少し違い、河上彦斎は、土佐藩士の岡田以蔵薩摩藩士の田中新兵衛中村半次郎桐野利秋)とともに「幕末四大人斬り」と呼ばれている。 普段は礼儀正しく温和だったが、一方で平気で人を斬る残忍性を持っていたという河上彦斎。 その剣術は我流で片手抜刀の達人。右足を前に出し折り、左足を後ろに伸ばして膝を地面すれすれにつけ、右手一本で逆袈裟の斬り上げが得意だったと言う。 ところが身長は150センチほどで色白、一見女性のようだったと言い、このようなイメージから「るろうに剣心」の剣心のモデルになった。

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少年ジャンプに連載されると人気を呼び、テレビアニメ化、劇場版アニメ化に続き、実写版も連作となり、

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最新版では熊本でもロケが行われ話題になった。

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原作者の和月伸宏氏によると、『彦斎が維新後も曲げ切れなかったものを「節義」であると捉え、そこから「剣心」のキャラクターへと昇華させていった』らしい。 そのようなことになっているのを当の彦斎自身も知るべくもなく、黒髪町の桜山神社肥後勤皇党の墓地の一角に

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彼の墓標が、ひっそりと立っていた。

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(「高田源兵衛」は彦斎の通称)

今回のレポートのために昼から1時間ほど走り回ったけど、いやはや、蒸し暑かったでござるよ。

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